7「徳川慶喜公屋敷跡」石柱(西草深町慶喜邸跡)~鉄道を避けて転居~
紺屋町の屋敷に住んでいた徳川慶喜は、東海道線開通前年の1888(明治21)年3月6日、西草深に転居した。 ここでの慶喜の生活は東京に戻る1897年11月16日まで約10年近く続いた。 慶喜が東京に去った後、この屋敷は葵ホテルとなり、日露戦争時にはロシア兵の捕虜収容所となったが、1905年8月に火事で焼失した。
紺屋町の屋敷に住んでいた徳川慶喜は、東海道線開通前年の1888(明治21)年3月6日、西草深に転居した。 ここでの慶喜の生活は東京に戻る1897年11月16日まで約10年近く続いた。 慶喜が東京に去った後、この屋敷は葵ホテルとなり、日露戦争時にはロシア兵の捕虜収容所となったが、1905年8月に火事で焼失した。