2「徳川慶喜公屋敷跡」石柱(紺屋町慶喜邸跡 浮月楼の角)~今に残る名園~
謹慎をとかれた徳川慶喜は、1869(明治2)年10月5日に、宝台院から駿府紺屋町の元代官屋敷に移り、ここで生活を始めた。 女中部屋を含めて12~13室の住居だったという。屋敷南側には慶喜が作庭師小川治兵衛に命じて造らせた回遊式の池が広がるが、これが現在の浮月楼の庭園である。
慶喜は近くに東海道鉄道が開通するのに先だって、1888年3月6日に西草深に転居した。 慶喜転居後、紺屋町屋敷は1889年にいったん静岡市が7,000円で払い下げを受けたが、翌年、市内の資産家の野崎彦左衛門、尾崎伊兵衛、森作太郎3人が購入し、のちに料亭として開業した。 なお、慶喜の住んだ屋敷は1892年の火災で焼失した。
この紺屋町屋敷での生活以後、静岡時代の慶喜は写真、油絵、狩猟、自転車など多彩な趣味の世界に生きた。
参考文献 記号は静岡県立中央図書館請求番号
- 静岡県日本史教育研究会編『静岡県の歴史散歩』(山川出版社)<S290/90>
- 前林孝一良『徳川慶喜 静岡の30年』(静岡新聞社)<S289/ト13-9>
- 前田匡一郎『慶喜邸を訪れた人々』(羽衣出版)<S289/ト13-37>
- 拓植清『静岡市史余録』(歴史図書社)<S222/3>
- 静岡県『輝く静岡の先人』<S280/234>