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1「徳川慶喜公謹慎之地」石柱(宝台院)~約1年2か月の謹慎生活~

戊辰戦争のさなか、徳川慶喜はいちはやく朝廷へ恭順の態度を決め、江戸、さらに水戸で謹慎生活に入っていたが、1868(慶応4)年7月19日に水戸を離れ、海路で7月23日に清水湊に到着、同日夕刻に駿府宝台院に入った。 翌1869(明治2)年10月5日までの約1年間、宝台院の一室で謹慎生活を送った。

宝台院は、もとは龍泉寺と称していた。 徳川家康の側室で二代将軍秀忠の生母・西郷局が当寺に葬られたが、1628(寛永5)年に後水尾天皇が故西郷局に従一位および宝台院と追号し、以後、寺は宝台院と称するようになった。 徳川家ゆかりの寺院である。

参考文献 記号は静岡県立中央図書館請求番号

徳川慶喜公謹慎之地石柱(宝台院)

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