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2025(令和7)年2月のWeb版貴重書展示「山岡鉄舟と静岡」

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『静岡御役人附』

慶応4(1868)年の江戸城の無血開城といえば、江戸で行われた西郷隆盛(東征軍参謀)と勝海舟(旧幕府陸軍総裁)との会談を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。
実は、その会談の数日前に、駿府滞陣中の西郷と、徳川慶喜の依頼を受けて江戸から急行した山岡鉄舟との談判により、降伏条件に関する大方の交渉は済んでいました。このことから、江戸無血開城の旧幕府側の最大の功労者は山岡であり、勝ではないとする研究者もいます。
山岡鉄舟(1836~88)は、通称を鉄太郎といい、幕末・明治期に幕臣や新政府の政治家などとして活躍した人物です(鉄舟は号)。剣術家、能書家でもあり、勝海舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟として知られています。
維新後には徳川家の駿府移住に従って駿府藩に仕えるなど、山岡と静岡県との関係は西郷との談判にとどまりません。初代静岡県知事の関口隆吉と親交が深かったことから、当館の特殊コレクションの久能文庫には、西郷との談判に関する手記をはじめ、山岡の書簡や書などが含まれています。

展示期間・場所

期間 2月1日(土曜日)~2月27日(木曜日)
場所 静岡県立中央図書館 閲覧室に入ってすぐの貴重書展示コーナー

展示資料一覧

画像をクリックすると、当館デジタルライブラリーの該当資料が表示されます。

書名等 画像 略説

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『山岡鉄舟手記』(やまおかてっしゅうしゅき)

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本書は、徳川慶喜の命をうけた山岡鉄舟が、慶応4(1868)年3月9日に駿府で西郷隆盛と会見した時の様子を記したものとされています。同年4月に行われた江戸城無血開城は、3月13、14日に行われた勝海舟と西郷による会見で決定し、二人の功績として知られています。しかし、三条実美・岩倉具視は、駿府での事前会見を評価し、山岡の功績を後世に残すため、本書を提出させたとされています。
事前会見では、徳川家への寛大な処置の条件として五箇条が示されました。そのうち、「徳川慶喜ヲ備前(びぜん)(現在の岡山県)ヘ預クル事」を「朝命(ちょうめい)(朝廷からの命令)」として押し切ろうとする西郷に対し、山岡は、仮に島津公が朝敵(ちょうてき)となり、あなたが私の立場になったとして、命令だからといって主君を差し出すことができるのか、と説き伏せたことが記されています。

デジタルライブラリーへのリンク 山岡鉄舟手記 (左の画像は7コマ目)

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『静岡御役人附』(しずおかおやくにんづけ)

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江戸幕府の滅亡に伴い、慶応4(1868)年5月24日、徳川宗家を継いだ家達(いえさと)は、駿河府中藩70万石に移封されることとなりました。家臣の数も大幅に削られましたが、無禄でも駿河への随従を希望する旧幕臣も数多くいました。
山岡は当初、勝海舟とともに、駿河府中藩(明治2年6月より静岡藩と改称)の「幹事役」に任命され、明治2年9月20日には「権大参事(ごんのだいさんじ)」に任命されています。いずれも藩の中枢を担う役職でした。山岡は新政府に不平を抱く旧幕臣の対応や無禄移住者の支援など山積する課題に奔走したものと思われます。
資料の『静岡御役人附』は明治2年頃の発行と推定される静岡藩の役人名簿です。山岡は権大参事の一人として「藩政補翼(はんせいほよく)」の肩書をもって掲載されています。
明治4年、山岡は新政府から茨城県参事に任命され、駿府を後にします。

デジタルライブラリーへのリンク静岡御役人附 (左の画像は2コマ目)

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『鉄舟大般若経写経・絶筆』(てっしゅうだいはんにゃきょうしゃきょうぜっぴつ)

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山岡鉄舟は、51歳になった明治19(1886)年頃より胃病が重くなり体調が優れなくなっていました。同年10月から大蔵経の写経を発願し、増上寺の朝鮮版大蔵経を借用して、毎晩のように写経をしました。亡くなる前日まで続けられ、大般若経126巻を書き写しました。それらは死後、山岡が創建した禅寺の全生庵(ぜんしょうあん)(東京都台東区)に保管されていましたが、惜しくも明治27(1894)年の火災で焼失してしまったといいます。
本書は関口家から当館に寄贈された資料のうちの1点です。大般若経の第1巻の写経の一部分であり、包み紙には『山岡鉄舟 大般若経の写一枚』と書かれています。
山岡と旧知の仲であった関口隆吉(せきぐちたかよし)は、「鉄舟危篤」の知らせを受けて出張中の京都から東京へ駆けつけました。山岡は、人払いをして関口を枕元に招き死後のことを全て託したそうです。山岡が53歳の若さで亡くなったのは、明治21(1888)年7月19日のことでした。

デジタルライブラリーへのリンク 鉄舟大般若経写経・絶筆

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