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2024(令和6)年7・8月のWeb版貴重書展示「芳年の武者絵」

大日本名将鑑 右大将源頼朝

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上村翁旧蔵浮世絵集『大日本名将鑑 右大将源頼朝』

月岡芳年(1839~92)は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師です。12歳で歌川国芳に入門して絵を学んだことから、「芳」の字を受け継ぎました。時代の変化に伴って浮世絵そのものが衰退していくなかで、ただ一人傑出した作品を描き、「最後の浮世絵師」とも呼ばれています。
一般には「残酷絵」や「血みどろ絵」の印象が強い芳年ですが、作品全体に占める残酷絵の点数は、実はそれほど多くはありません。武者絵や美人画などでも多くの傑作を世に送り出したほか、新聞や雑誌の挿絵も手掛けました。
今回展示している「大日本名将鑑」と「芳年武者無類」は、いずれも歴史上の人物を描いた芳年の代表的な武者絵の連作です。両方に登場する人物もいますが、「芳年武者無類」の躍動感ある碁盤切りの構図が印象的な八幡太郎義家(源義家)のように異なる場面を描いたものもあれば、平清盛のように同じ日招きの場面を描いたものもあり、見比べる面白さもある作品です。

展示期間・場所

期間 6月29日(土曜日)~8月29日(木曜日)
場所 静岡県立中央図書館 閲覧室に入ってすぐの貴重書展示コーナー
(期間中、資料を入れ替えて展示します)

展示資料一覧

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書名等 画像 略説

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上村翁旧蔵浮世絵集『大日本名将鑑 素盞烏尊稲田姫』(だいにほんめいしょうかがみ すさのおのみこと いなだひめ)

(7月前半のみ)

大日本名将鑑素盞島尊稲田姫

天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟である素盞烏尊(すさのおのみこと)は、長い髭を蓄えた乱暴者で高天原(たかまがはら)から追放されてしまいました。出雲に降りた素盞烏尊は、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、その生贄(いけにえ)であった稲田姫(いなだひめ)を救いました。稲田姫とは、『日本書紀』に登場する奇稲田姫(くしなだひめ)(櫛名田比売)のことです。その後二人は結婚して出雲の須賀にとどまり、大社の祭神となったと伝えられています。須賀は現在の鳥取県雲南市大東町須賀と推定され、当地には須賀神社が存在します。

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上村翁旧蔵浮世絵集『芳年武者無類 日本武尊 川上梟師』(よしとしむしゃぶるい やまとたけるのみこと かわかみのたける)

(7月前半のみ)

芳年武者無類 日本武尊 川上梟師

第12代景行天皇の子である16歳の小碓尊(おうすのみこと)は、父の命で西国の熊襲(くまそ)(熊曾)討伐に向かいます。熊襲国(くまそのくに)に着いた小碓尊は女装し、熊襲の首長である川上梟帥(川上建)の酒宴に紛れ込み、川上梟帥の胸を刺しました。『古事記』では熊曽建(くまそたける)を呼ばれる川上梟帥は、死に際に「勇者」を意味する自らの「タケル」の名を奉りました。これが日本武尊(やまとたける)の名前の由来です。無事に熊襲の反乱を平定した日本武尊は天皇に報告し、天皇はその功績を褒めたたえ、日本武尊を非常に愛したといいます。

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上村翁旧蔵浮世絵集『大日本名将鑑 神功皇后 武内宿禰』(だいにほんめいしょうかがみ じんぐうこうごう たけのうちのすくね)

(7月前半のみ)

大日本名将鑑 神功皇后 武内宿禰

第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后で伝説上の人物とされる神功皇后が、仲哀天皇の死後に三韓(新羅、高句麗、百済)征伐に赴く途中、肥前国松浦(まつら)郡の玉島川(現佐賀県唐津市)で釣りをして戦勝を占ったという伝説を描いた浮世絵です。この時に鮎が釣れたことから、魚偏に占という「鮎」の漢字が作られたともいわれています。
大臣の武内宿禰は、神功皇后を助けて三韓征伐に功績があったと伝えられており、この浮世絵にも神功皇后の傍らで手を挙げる姿が描かれています。詞書(ことばがき)に「六代の朝に仕え」とあるのは、第15代応神天皇の即位まで摂政をしていた神功皇后を含めたものと思われます。

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上村翁旧蔵浮世絵集『芳年武者無類 大臣武内宿禰』(よしとしむしゃぶるい おおおみたけのうちのすくね)

(7月前半のみ)

芳年武者無類大臣武内宿祢

武内宿禰は、第8代孝元天皇の孫または曾孫とされ、大和朝廷の初期、景行(けいこう)・成務(せいむ)・仲哀(ちゅうあい)・応神(おうじん)・仁徳(にんとく)の5代の天皇(『古事記』では景行天皇を除く4代の天皇)に200年以上に渡って仕えたといわれる伝説上の人物です。最初の大臣(おおおみ)で、明治22(1889)年から昭和33(1958)年まで発行された一円紙幣の肖像の人物でもあります。
描かれている場面は、応神天皇9(278)年に、謀反の讒言(ざんげん)をした異母弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)と盟神探湯(くかたち)(神に誓って熱湯に手を入れ正邪を判定する神判法)を行い、武内宿禰が勝って自らの潔白を証明したとされるところです。

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上村翁旧蔵浮世絵集『大日本名将鑑 酒呑童子』(だいにほんめいしょうかがみ しゅてんどうじ)

(7月後半のみ)

大日本名将鑑酒呑童子

平安時代中期、京都の大江山(おおえやま)に住み人々をかどわかして都人に恐れられた酒呑童子。
酒呑童子討伐の勅命を受けた源頼光(みなもとのよりみつ)・藤原保昌(ふじわらのやすまさ)・阪田公時(さかたのきんとき)・渡辺綱(わたなべのつな)・卜部季武(うらべすえたけ)・碓井貞光(うすいさだみつ)が、三神(住吉・八幡・熊野)から授かった神酒で酒呑童子を酩酊させ討ち取るという鬼退治伝説として知られています。
描かれているのは、山伏に変装した頼光らが酒呑童子に酒をすすめている場面です。

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上村翁旧蔵浮世絵集『芳年武者無類 源頼光・阪田公時』(よしとしむしゃぶるい みなもとのよりみつ さかたのきんとき)

(7月後半のみ)

芳年武者無類源頼光阪田公時

源頼光は、源満仲(みなもとのみつなか)(多田満仲(ただのまんじゅう))の嫡男で摂津源氏の祖。酒呑童子や土蜘蛛の退治伝説などで有名で、武勇絶倫とされています。阪田公時は、幼名「金太郎」が有名ですが、伝説的人物で史実は不明です。
『前太平記』には、頼光が総州から都に戻る際に足柄山で公時に出会い、使いの渡辺綱(わたなべのつな)が「公(きみ)に事(つかふまつ)る に時を得たり」と祝したことから、頼光が「酒田金時」と名乗らせたと説かれています。

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上村翁旧蔵浮世絵集『大日本名将鑑 八幡太郎義家』(だいにほんめいしょうかがみ はちまんたろうよしいえ)

(7月後半のみ)

大日本名将鑑八幡太郎義家

文武兼備の名将とたたえられる、源義家(みなもとのよしいえ)(生没年:1039~1106)。
八幡太郎(はちまんたろう)という呼び名は、石清水八幡宮で元服したことから来ています。
「後三年の役」(ごさんねんのえき)で奥州に向かう際、散っていく山桜を見て「吹く風を名古その関と思へども道もせに散る山桜かな」と詠んだ時の様子が描かれています。

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上村翁旧蔵浮世絵集『芳年武者無類 八幡太郎義家』(よしとしむしゃぶるい はちまんたろうよしいえ)

(7月後半のみ)

芳年武者無類八幡太郎義家

『古今著聞集』(ここんちょもんじゅう)に書かれている源義家の逸話を描いた絵です。
義家はある女の家に毎晩、通っていました。その女の母親が義家の通うのを止めようと画策しますが、手に負えず、兄である比叡山の僧に相談しました。僧は部屋の入口に碁盤を置き、躓(つまず)いたところを切り捨てようと考えました。しかし、義家はすぐに罠に気づき、碁盤の端を切り捨てました。僧は義家の刀さばきを見て、恐れをなして逃げ出したといわれています。

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上村翁旧蔵浮世絵集『大日本名将鑑 平相国清盛』(だいにほんめいしょうかがみ へいしょうこくきよもり)

(8月前半のみ)

大日本名将鑑平相国清盛

瀬戸内海西部、現在の広島県呉市にある海峡「音戸(おんど)の瀬戸」には、平清盛(たいらのきよもり)が、扇で沈みゆく太陽を呼び戻し、その日のうちに開削工事を完成させたという伝説があります。
この絵では、扇で日招きをしている豪胆な清盛の入道姿が描かれています。

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上村翁旧蔵浮世絵集『芳年武者無類 平相国清盛』(よしとしむしゃぶるい へいしょうこくきよもり)

(8月前半のみ)

芳年武者無類平相国清盛

瀬戸内海西部、現在の広島県呉市にある海峡「音戸(おんど)の瀬戸」には、平清盛(たいらのきよもり)が、扇で沈みゆく太陽を呼び戻し、その日のうちに開削工事を完成させたという伝説があります。
この絵では、扇で日招きをし、太陽を戻し切って満足した清盛の入道姿が描かれています。

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上村翁旧蔵浮世絵集『大日本名将鑑 右大将源頼朝』(だいにほんめいしょうかがみ うだいしょうみなもとのよりとも)

(8月前半のみ)

大日本名将鑑右大将源頼朝

文治3(1187)年8月、源頼朝は鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)で殺生を戒める儀式である「放生会(ほうじょうえ)」を開催しました。その際、由比ヶ浜で千羽の鶴を放ったといわれており、その様子を描いた絵図です。
源頼朝は平治の乱で平清盛に敗れ、わずか13歳で伊豆へ流罪になるなど苦難の時代を過ごしました。治承4(1880)年、以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を受けて挙兵をした頼朝は、文治元(1185)年に平氏を、文治5(1189)年に奥州藤原氏を倒して鎌倉幕府を樹立しました。天下人となった頼朝と縁起のよい鶴の乱舞が見事に調和した晴れやかな図柄となっています。

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上村翁旧蔵浮世絵集『芳年武者無類 遠江守北条時政』(よしとしむしゃぶるい とおとうみのかみほうじょうときまさ)

(8月前半のみ)

芳年武者無類遠江守北条時政 北条時政が、子孫繁栄を願って江ノ島へ参籠(さんろう)(一定期間、神社や寺院などに籠もり、祈願すること)したという逸話を描いた作品です。参籠して37日目の夜、赤い袴と柳裏(やなぎうら)の衣を着た美しい女性が現われ、時政の願いを叶えることを約束しましたが「非道な行ないをすれば、家は滅亡するであろう」との神託を告げられました。その後、女性はたちまち大蛇に姿を変え、海に消えました。北条時政がうやうやしく押し頂いている扇子の上に載せているのは、このときに大蛇が落とした鱗 。この逸話では、大蛇が3枚の鱗を残していったと伝えられており、それ以降北条氏は、いわゆる「三つ鱗(みつうろこ)」の意匠を家紋に定めました。

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上村翁旧蔵浮世絵集『大日本名将鑑 鎮西八郎為朝鬼夜叉』

(8月後半のみ)

大日本名将鑑鎮西八郎為朝鬼夜叉 保元元(1156)年に保元の乱で敗れて伊豆大島へ流罪となった源為朝(鎮西八郎:1139~没年不詳)が、狩野介こと工藤茂光(生年不詳~1180)の大軍を迎える様子を描いた浮世絵です。傍らにいるのは、為朝が女護島(にょごがじま)で結婚した妻の父親です。額に角のようなコブを持っていることから、為朝が鬼夜叉と名付けて家来にしました。射芸に優れていた為朝は、得意の強弓(つよゆみ)で敵の舟に矢を放って抵抗したのち自害した、あるいは異国に渡ったとも伝えられています。

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上村翁旧蔵浮世絵集『芳年武者無類 鎮西八郎源為朝』(よしとしむしゃぶるい ちんぜいはちろうみなもとのためとも)

(8月後半のみ)

芳年武者無類鎮西八郎源為朝

鎮西八郎こと源為朝(1139~没年不詳)は、源為義(1096~1156)の八男として誕生しました。為朝は身の丈2mを超す体格で、巨大な弓を持ち、射芸に優れていました。
伊豆大島に流罪となった為朝のもとに疱瘡神(ほうそうがみ)(天然痘をもたらす疫病神)が近づいた際、為朝が一喝して退治し、その後伊豆大島で疱瘡がなくなったという伝説があります。疱瘡が流行した江戸時代に、為朝は疱瘡絵(疱瘡除けの絵)の代表格となり、弓と矢を携える姿が描かれるようになりました。

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上村翁旧蔵浮世絵集『大日本名将鑑 織田右大臣平信長』(だいにほんめいしょうかがみ おだうだいじんたいらののぶなが)

(8月後半のみ)

大日本名将鑑織田右大臣平信長

一代の風雲児織田信長は、天下統一の途上、本能寺の変に倒れます。絵は、猛火の中、強弓(つよゆみ)に手をかけ最後の奮戦を試みる信長の姿を描いています。詞書(ことばがき)では信長を「智勇絶倫(ちゆうぜつりん)」と讃(たた)え、「突然逆臣(ぎゃくしん)・明智光秀に襲われ京の本能寺で自刃(じじん)、時に四十九歳、嗚呼(ああ)、惜しいかな。」と結んでいます。

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上村翁旧蔵浮世絵集『芳年武者無類 弾正忠松永久秀』(よしとしむしゃぶるい だんじょうのちゅうまつながひさひで)

(8月後半のみ)

芳年武者無類弾正忠松永久秀 松永久秀は、室町幕府13代将軍足利義輝(あしかがよしてる)を殺害するなど、悪逆非道なイメージが定着しています。久秀は織田信長に対する度重なる裏切りの末、居城信貴山(しぎさん)城に追い詰められ、壮絶な自刃(じじん)を遂げます。絵は、自刃直前信長も欲しがった天下の名物茶器「平蜘蛛(ひらぐも)」を自ら投げ割る場面を描いたものです。

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