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2024(令和6)年3月・4月のWeb版貴重書展示「採撰亭版~静岡の近世木活字本~」

稲川詩草

江戸時代になると、書店による商業出版が盛んになり、大量の本が刊行されましたが、そのほとんどは整版(せいはん)で印刷されたものでした。
整版とは文字などを彫った板木(はんぎ)のことで、その面に墨を塗り、紙を置いて刷り上げる印刷方式です。増刷が容易など、商業出版向きでした。
この整版に対する印刷方式として、活版があります。活字版とも言い、彫刻や鋳造により一字ずつ作った字型(じがた)(活字)を組み合わせて作成した版を用いた印刷のことです。活字さえ揃えれば出版ができたことから、江戸後期になると、私家版などの小規模な出版で木活字による印刷が行われるようになり、近世木活字本などと呼ばれています。
静岡でも、駿府江川町の町人の柴崎直古(なおふる)が、木活字版による出版を行っていて、直古の号の採撰亭(さいせんてい)から、採撰亭版と言われています。山梨稲川(とうせん)の漢詩集『稲川詩草』や羽倉簡堂(はくらかんどう)の地誌『駿府志略』・『駿河府志』といった静岡ゆかりの本などを刊行しており、本県の出版文化史にその名を刻んでいます。

展示期間・場所

期間 3月1日(金曜日)~4月29日(月曜日)
場所 静岡県立中央図書館 閲覧室に入ってすぐの貴重書展示コーナー

展示資料一覧

画像をクリックすると、当館デジタルライブラリー、国立国会図書館デジタルコレクションもしくは関西大学デジタルアーカイブの該当資料のいずれかが表示されます。

書名等 画像 略説

990/23
『稲川詩草(とうせんしそう)』
(文政4(1821))年刊)

稲川詩草

山梨稲川(1771~1826、字(あざな)は玄度(げんたく))は、江戸時代後期に漢学者、漢詩人として駿府を中心に活躍した人物です。稲川という呼称は、41歳の時に転居した駿府稲川(いながわ)村から、漢学者風に音読みして「たうせん」と自ら号したものです。
稲川詩草は、山梨の生前唯一版行された7巻5冊の漢詩集です。駿府の鉄屋(くろがねや)・柴崎直古(なおふる)の採撰亭(さいせんてい)より出版されました。出版当時は広く知られていたわけではありませんが、清朝末期の大学者である兪樾(ゆえつ)(1821~1906)が『東瀛詩選(とうえいしせん)』に一部の詩を採用し、高く評価したため、日本でも広く認められるようになりました。
690首の漢詩が収録されており、冒頭の日本神話を順に13首描いた「詠古十三首」が有名です。

関西大学デジタルアーカイブで全文を読むことができます。(稲川詩草 外部サイトリンク)

S222/9
『駿河府志(するがふし)』
(文政12(1829)刊)

駿府志略

本書は、文政12(1829)年に儒学者である羽倉簡堂(はくらかんどう)(1790~1862、名は用九(もろちか))が著した駿河国の地誌です。同年、簡堂による『駿府志略』という地誌も刊行されました。それぞれの例言を比べると、『駿府志略』は駿府より5里(約20km)以内の地について記されているのに対し、『駿河府志』は駿府より8里(約31km)以内のことが記されています。
簡堂は、17歳で江戸の儒学者古賀精里(こがせいり)に入門し、文政6(1823)~天保2(1831)年の間、駿府に在勤しました。本書は、その頃に書かれたものです。

222/13
『駿府志略(すんぷしりゃく)』
(文政12(1829)年刊)

駿府志略

本書は、文政12(1829)年に羽倉簡堂(はくらかんどう)(1790~1862、名は用九(もろちか))が駿府代官就任中に執筆した駿河国の地誌で『駿河小志』ともいわれ、『駿河府志』の増補版です。『駿河府志』は本文15丁および雑記3丁であるのに対し、『駿府志略』は31丁および雑記6丁という倍以上の増補となっています。
本書は、駿府より5里(約20km)以内の地について、興替(領主の移動)、都城、海港、山水、寺廟、古跡、人物、物産の8項目について、漢文体で記されています。例えば、人物の項では、今川氏の軍師でもあった太原崇孚雪斎(たいげんすうふせっさい)、山田長政らを取り上げ、物産の項では漆器・磁器・白銅器・蜜柑・わさび・興津鯛などを取り上げています。

K071/3
『西河折妄(せいがせつぼう)』
(文化6(1809)年刊)

西河折妄

本書は中国、清の学者である毛奇齢(もうきれい)の著書『経問(きょうもん)』の誤りについて論じたもので、駿府勤番の長田遵王が校訂しました。著者の猪飼敬所(いがいけいしょ)(1761~1845)は江戸後期の儒学者で、初め手島堵庵(てじまとあん)に就いて心学を修め、23歳のとき儒学に転じて、岩垣竜渓(いわがきりゅうけい)の門に入りました。
また採撰亭に印刷を依頼した猪飼敬所が、弟子に宛てた書簡に「来春、駿府にて活字版を以て西河折妄を仕立てんと謀る。廿五日に出来候て、百部にて代金十四両・・・」と書いており、費用は1部3冊の本100部が14両(1両が4万円とすると現在のおよそ56万円)であったことがわかります。

国立国会図書館デジタルコレクションで全文を読むことができます。(西河折妄 外部サイトリンク)

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