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2024(令和6)年12月・2025(令和7)年1月のWeb版貴重書展示「貴重書に見る日露関係」

Polnoi Frantsuzskoi i Rossiiskoi leksikon
AO15
『Polnoi Frantsuzskoi i Rossiiskoi leksikon(仏露辞書)』

2022年2月24日にロシアが隣国のウクライナに侵攻して以来、日露関係は政治・経済・文化交流など多方面で厳しい状況が続いています。
ロシア・ウクライナと同様に隣国同士である日露の関係は、江戸時代にも厳しい時期がありました。実は、ペリー来航の半世紀も前から、日本はロシアの開国圧力と闘い続けていたのです。
積極的な領土拡張政策をとるロシアは、17世紀に太平洋岸へ到達し、探検隊を日本近海に送るようになりました。その後、18世紀末にはラクスマン、19世紀初めにはレザノフが次々と来航し、日本に通商を求めました。その結果、通商を拒否されたロシアによる蝦夷地の襲撃事件や、ゴローウニン事件と呼ばれる日露双方の人質事件が起こり、日露の緊張関係は急激に高まりました。
幕府は、こうしたロシアの脅威に対抗すべく、北方探検、海防の強化、ロシア事情の研究など、さまざまな対策を行いました。幕府旧蔵書からなる当館の葵文庫にロシア関係の資料が多いのは、当時の幕府のロシアに対する危機感を表しています。

展示期間・場所

期間 11月30日(土曜日)~1月14日(火曜日)
場所 静岡県立中央図書館 閲覧室に入ってすぐの貴重書展示コーナー

展示資料一覧

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書名等 画像 略説

AO15
『Polnoi Frantsuzskoi i Rossiiskoi leksikon(仏露辞書)』

Polnoi Frantsuzskoi i Rossiiskoi leksikon

ゴローウニンが文化8(1811)年、国後島(くなしりとう)で捉えられたときに所持していた辞書の下巻です。上巻は一橋大学古典資料センタ-に現存しています。一橋本の表紙裏、見返しの左肩にはゴローウニンの自筆により、1802年5月16日、ペテルブルグにおいて14ル-ブリで購入した旨の記載があります。本書にもゴローウニンによると思われるフランス語、ロシア語などの書き込みが多数見られます。
抑留中、ゴローウニンはロシア語や西洋の知識を得ようと彼のもとにやってきた通詞や蘭学者に本書を使って、ロシア語を教えました。ゴローウニン著『日本幽囚記(遭厄日本紀事)』には、日本の通詞たちが本書を数頁写すなど、勉強している様子が描かれています。ゴローウニンの帰国後、この辞書は紆余曲折をへて幕府に帰し、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の蔵書となりました。

デジタルライブラリーへのリンク 仏露辞書 (左の画像は4コマ目)

AJ12
『遭厄日本紀事(そうやくにほんきじ)』

遭厄日本紀事

文化8(1811)年、国後島に上陸したロシア艦の艦長ゴローウニンを幕府が捕らえ、抑留するという「ゴローウニン事件」が起こりました。ゴローウニンは、松前と箱館において2年3か月余の幽閉生活を送るなか、日本の学問の水準、国内体制、習俗、民族性などの見聞を克明に記録しました。その記録は1816年にロシアで出版され、さらにヨーロッパの各国語に翻訳されて版を重ねました。文政4(1821)年、そのオランダ語訳である『Mijne Lotgevallen in Mijne Gevangenschap bij de Japanners』がオランダ商館長によって江戸にもたらされ、高橋景保(たかはしかげやす)、馬場佐十郎(ばばさじゅうろう)が翻訳に着手しました。馬場の没後は杉田立卿(すぎたりゅうけい)、青地林宗(あおちりんそう)が引継ぎ、文政8(1825)年に訳了、『遭厄日本紀事』と題され、高橋が全巻校訂の上、幕府に進呈しました。
現代語訳は『日本俘虜実記(にほんふりょじっき)』として刊行され当館でも所蔵しています。

デジタルライブラリーへのリンク 遭厄日本紀事 (左の画像は11コマ目)

AJ21
『精校海国兵談(せいこうかいこくへいだん)』

精校海国兵談

ロシアの南下策に危機感を募らせた林子平(はやししへい)(1738~93年)が著した海防書です。
林子平はこの本の中で、日本は海で四方を囲まれた「海国」であるため、外国からの侵略に備えた海防体制が必要であると説いています。そして「細かに思えば、江戸の日本橋より、唐・阿蘭陀(おらんだ)迄、堺なき水路なり」という有名な警句をもって、東京湾の防備が急務であると指摘しています。
刊行は寛政3(1791)年4月でしたが、翌年5月に老中松平定信は、「世間に無用の不安をおこす」との理由で本書の絶版を命じ、林子平には蟄居(ちっきょ)を命じました。しかし、わずか4か月後の寛政4(1792)年9月にはロシア帝国陸軍中尉・ラクスマンが遣日使節として根室に来航し、通商を要求しました。林子平の予見は現実のものとなったのです。

デジタルライブラリーへのリンク 精校海国兵談(左の画像は4コマ目)

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