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2020(令和2)年9月・10月のWeb版貴重書展示 「芳年と月」

月百姿孫悟空玉兎
K915-108-037-032『月百姿孫悟空玉兎』

芳年(よしとし)と月

~Web版 貴重書展示~

月岡芳年は天保10(1839)年に生まれ、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師です。時代が変化し、浮世絵そのものが衰退していくなかで、ただ一人傑出した作品を世に輩出しました。
一般的に無惨絵の印象が強い芳年ですが、実は、芳年の作品全体に対する無惨絵の点数はそれほど多くなく、武者絵、美人画などでも多くの傑作を世に送り、新聞や雑誌の挿絵も手掛けました。その中の「月百姿」は、月にちなむ説話・故事・伝承で構成された全100作品の浮世絵の連作で、芳年の最後の大作であり、代表作の1つです。錦絵版画ではありますが、色彩やぼかしの技法など日本画に近く、明治の錦絵界に新しい様式を生む発端となった作品とも言えます。また、「月百姿」には江戸の浮世絵に対する芳年の追慕の念と慈しみが浮かび上がっています。
最後の浮世絵師であった芳年の新時代を切り開く努力と江戸の浮世絵への回帰という2つのベクトルが止揚されているように感じられます。

展示期間・場所

期間 9月1日(火曜日)~10月18日(日曜日)
場所 静岡県立中央図書館 閲覧室 貴重書展示コーナー
(期間中、資料を入れ替えて展示します)

展示資料一覧

画像をクリックすると、当館デジタルライブラリーの該当資料が表示されます。

書名等 画像 略説
K915-108-037-032
『月百姿孫悟空玉兎』
※前半のみ
月百姿孫悟空玉兎

月岡芳年の連作「月百姿」の、七十七番目の作品です。
日本では、月の兎は杵(きね)で餅を搗(つ)くといわれますが、中国では玉兎(ぎょくと)が仙薬(せんやく)を搗(つ)くという伝説があります。
『西遊記』で、孫悟空は天竺(てんじく)国王の娘になりすましていた玉兎を偽者と見破り激しく戦います。玉兎が劣勢になったとき現れた月の神は、月の宮殿から逃げた玉兎であると明かして一喝、その拍子に元の姿に戻った兎を月に連れ帰ります。
孫悟空のポーズや衣装、跳ねる兎が躍動感のある構図を作っています。

K915-108-037-022
『月百姿菅原道真』
※前半のみ
月百姿菅原道真

月岡芳年の連作「月百姿」の、十六番目の作品です。
梅に関わる伝説が多い菅原道真には、父の菅原是善(これよし)が梅の樹に忽然と現れた童子をわが子として育てたという伝説もあります。
この絵は、梅の花が美しい月夜に父に詩を詠むように言われた11歳の道真がさらさらと筆をすすめ、初めて詩を詠んだ光景を描いています。
「月耀如晴雪(げつようせいせつのごとく) 梅花似照星(ばいかしょうせいににたり) 可憐金鏡転(あわれむべしきんきょうてんじて) 庭上玉房馨(ていじょうにぎょくぼうのかおれるを)」

K915-108-037-030
『月百姿曹操南屏山昇月』
※前半のみ

月百姿曹操南屏山昇月

「曹操南屏山昇月」は、月岡芳年の連作「月百姿」の四番目の作品です。
本作は、三国志の主人公の1人である魏王曹操が、赤壁(せきへき)の戦いの前夜に開かれた酒宴で、軍船から南屏山に昇る月を見て、歌を詠んでいる姿を題材としたものです。
南屏山(なんびょうざん)は、赤壁の戦いで魏軍の水軍に対して、火計を仕掛けようとした諸葛孔明が、風向きを変えるための祭壇を置いた場所としても知られています。

K915-108-037-028
『月百姿銀河月』
※後半のみ

月百姿銀河月

         

「銀河月」は月岡芳年の連作「月百姿」の三十六番目の作品です。
本作は、七夕の由来となった天帝の娘である織女(織姫)と、その婿である牽牛(彦星)が、天帝の怒りを買い、一年に一度、七月七日の夜しか天の川を渡って会えなくなった、という中国の伝説をモチーフとしたものです。
この七夕の逸話は、江戸時代には他の作品のモチーフにもなっており、広く知られていたようです。

K915-108-037-031
『月百姿石山月』
※後半のみ

月百姿石山月

この作品は南北朝時代の源氏物語の注釈書『河海抄(かかいしょう)』(四辻善成(よつつじよしなり)著)の中の源氏物語誕生にまつわるエピソードが画題になっています。
文机に頬杖をついている女性は紫式部、中宮彰子から新しい物語を作るようにとの命を受け、石山寺(滋賀県大津市)に籠って夜通し祈願して源氏物語の着想を得たといいます。『河海抄』によれば、十五夜の月が湖に映るのを見たところ物語の風情が浮かんだ、というのですが、この作品の背景に湖はなく、険しい岩山が紫式部の前に立ちはだかっています。時は満ち、創作への啓示が一条の月の光のごとく射し込み岩山を突き崩す、静かな表情はそんな瞬間を待っているようにも思えます。

K915-108-037-036
『月百姿阿部仲麿』
※後半のみ
月百姿阿部仲麿

阿倍仲麻呂は奈良時代717年に遣唐使として唐に留学しました。やがて玄宗皇帝の治世の唐朝に登用され、李白や王維など多数の文人とも交流がありました。有能で皇帝の信頼も厚かった仲麻呂は、なかなか帰国を許されなかったといいます。
この画題の「天の原ふりさけ見れば春日なる...」の歌は、ようやく日本に帰国できることになり、催された送別の宴で詠んだとされています。しかし、不運にも帰国の船が遭難し安南(ベトナム)に漂着、その後再び日本の地を踏むことはかないませんでした。唐に戻った仲麻呂は再度唐朝に仕え、かの地で亡くなりました。

※参考『芳年「月百姿」』(東京堂出版)ほか

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