江戸後期・明治初期の歴史/嘉永・安政・慶応期(1848年〜1868年)
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5[嘉永・安政・慶応期(1848年〜1868年)]

 1853年(嘉永6)6月アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀にし、7月ロシアの使節プチャーチンが長崎に来航して、共に、開国を要求した。1854年(安政元)日本はアメリカ、イギリス、ロシアと、翌年オランダと和親条約を調印した。日露間では、エトロフ島とウルップ島の間に国境が定められた。

 このような情勢のなかで、洋書の翻訳だけでなく、洋学者の育成が急がれた。1855年(安政2)天文方蛮書和解御用掛を拡充・独立させて、洋学所とし、翌年(1856年)蕃書調所と改称され、幕臣や藩士を集めて洋学を習得させた。さらに、1862年(文久2)には洋書調所、翌年これを開成所とした。その間、教育内容も新しい時代に対応できるように拡充・変更され、蘭学(オランダ学)よりも英米学(英語)、仏学(フランス語)、独学(ドイツ語)へと重点が移され、西洋の科学技術や軍事科学を学ぶことに重きが置かれた。

<参考文献>
 1856年(安政3)アメリカ駐日総領事タウゼント・ハリスが下田に駐在し、通商条約の締結を要求した。

 1858年(安政5)日本はアメリカ(米)、オランダ(蘭)、ロシア(露)、イギリス(英)、フランス(仏)の5か国と修好通商条約を結んだ。

 1860年(万延元)日米修好通商条約批准のため、外国奉行新見正興(しんみまさおき)が主席全権として、アメリカ軍艦ポーハタン号で渡米し、勝海舟らが操縦した幕府軍艦咸臨丸が太平洋横断に成功した。

<参考文献>

 

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