江戸後期・明治初期の歴史/明治初期(1868年〜1872年)
デジタル葵文庫 葵文庫サイトマップ 右上画像

 

6[明治初期(1868年〜1872年)]

 1867年(慶応3)10月大政奉還、12月王政復古、江戸幕府は倒れた。しかし、翌1868年(慶応4)1月3日鳥羽・伏見の戦いが起こり、戊辰(ぼしん)戦争が始まった。4月11日江戸城は新政府に明け渡された。閏4月29日徳川家の相続は田安亀之助(徳川家達、いえさと)に許され、駿河府中藩(駿府藩、静岡藩)70万石に封ぜられた。8月15日徳川家達が駿府へ到着した。江戸を制圧した新政府軍は、6月中に早くも昌平黌(しょうへいこう)や開成所などを次々に撤収した。
昌平黌を新政府に引き渡した直後、第12代大学頭林昇(又三郎、学齋)は駿府に移住して、駿府藩のために新しい学校づくりを始め、最初の学問所頭となった。9月8日「今度、駿府城四足御門内御定番屋敷において、漢学、洋学を開講するので、志あるものは貴賎にかぎらず出席修行しなさい。」との布令が出され、10月12日には学問所の場所を「横内御門内元勤番組頭屋敷に変更する」、ついで11月5日には「イギリス、フランス、オランダ、ドイツの4カ国の学問を15日から開く」と発表された。こうして、静岡学問所(駿府学校)が開かれた。

 1869年(明治2)9月の「教授等一覧表」を見ると、小参事学校掛向山黄村(むこうやまこうそん)、河田熙(ひろし)、津田真一郎(真道)以下1等教授から5等教授まで39名、教授世話心得が18名計60名で、その中の多くは、すでに幕末に遣米(欧)使節に随行したり、外国へ留学した海外生活の経験者だった。漢学教授に中村正直〜なかむらまさなお〜(敬宇、西国立志編の訳者)、杉浦譲(郵便制度の確立者)、英学教授に外山正一〜とやましょういち〜(東大総長、新体詩抄の編集)、名村五八郎(ペリー再来時、第1回遣米使節の通訳)などそうそうたる人物が顔を揃え、1871年(明治4)にはアメリカ人クラークが理化学教師として赴任して来た。

 静岡学問所(駿府学校)が開かれた頃、沼津兵学校(徳川兵学校)も開校された。静岡学問所は洋学校としての性格が強く、沼津兵学校は徳川家の陸軍士官の養成を目的としていた。
1871年(明治4)廃藩置県、1872年学制頒布があり、両校とも廃校になり、教授たちは東京開成学校(東京大学の前身)や官界などへ去って行った。

 
左下枠画像
前ページへ
次ページへ
下枠画像
右下枠画像