江戸後期・明治初期の歴史/文化・文政期(1804年〜1830年)
葵文庫

 

3[文化・文政期(1804年〜1830年)]1

 1801(享和1)富山元十郎はウルップ島に「天長地久大日本属島」の標柱を建て、翌年、幕府は蝦夷奉行(箱館奉行と改称)を置いて松前藩に委任していた東蝦夷地を直轄にした。

 1804年(文化1)ロシアの使節レザノフが、仙台の漂流民津太夫らを送還して長崎に来航し、通商を要求した。艦長はクルーゼンシュテルンで、ロシアの都ペテルブルグに近い軍港を出発し、世界周航を企て、途中日本に立ち寄った。津太夫は船上で、ロシア船員から聞いて、世界地図上に長崎までの帰国航路を朱線で記入した。

<参考文献>
 1805年(文化2)通商要求を拒否されたレザノフはカムチャッカ半島へ向かったが、その途中、艦長クルーゼンシュテルンはカラフト東岸を測量し、さらに翌1803年には再びカラフト東岸を北上し、北端を迂回して西海岸に出て南下した。しかし、彼は海峡(のちの間宮海峡)を確認できないまま西へ去っていった。やがて、世界一周の快挙を成し遂げて帰国したクルーゼンシュテルンは、皇帝アレクサンドル一世によって、その栄誉を讃えられ、国費による「世界周航記」の出版が許された。

 一方、カムチャッカで艦長と別れたレザノフは露米会社の支配人だったので、北アメリカ西海岸へ向かったが、ロシアの軍艦に命じて1805年から6年にかけてカラフトやエトロフ島の日本の番所や会所を襲撃し、利尻島の幕府船を焼き払うなどの暴挙にでた。このような状況の中にあって、1806年幕府は全蝦夷地を直轄領とした。

 ロシアとの紛争によって、北方問題は焦眉の急となった。北方地域は未だ国境も定まっていない。国土の領域を画定するためにも地理的状況が明らかにされなければならなかった。まだ、その頃は、カラフトとサガリン(サハリン)は同じ地域か、否か、また、そこはユーラシア大陸の半島か、大陸とは海峡を隔てた島か、明らかではなかった。

 1808年(文化5)間宮林蔵と松田伝十郎は、カラフト探検を命ぜられた。林蔵は東海岸を北上して北シレトコ岬に達したが、それ以上北上することができなかったので、山越えして西海岸に出て松田伝十郎に会い、カラフトが離島であることを確かめて宗谷に帰り、天文方高橋景保(たかはしかげやす)に第1報をおくった。そして、翌年、彼は確認のため、再び海峡を突破した。当時、高橋景保は幕府から最新の世界地図の作成を命ぜられていた。間宮林蔵から「カラフトは島である」との第1報を受け取った景保は、早速、地図の試作品として、「新鐫(しんせん)総界全図・日本辺界略図」を作り、カラフトを島としてえがいた。そして、
1810年(文化7)彼は間重富(はざましげとみ)、馬場佐十郎らの協力を得て「新訂万国全図」を完成させた。

<参考文献>

 
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