江戸幕府崩壊後、駿府に移封された徳川氏が藩の建て直しや人材育成を意図して明治元年9月、駿府に開設した徳川藩の学校。
明治2年6月、府中(駿府)が静岡と改称されてからは静岡学問所、静岡学校と呼ばれ旧幕臣の子弟だけでなく、希望する者は誰でも就学することが出来た。
徳川氏の駿府移封とともに昌平坂学問所や開成所、横浜の仏語伝習所という幕末を代表する教育機関(官学)の教授、学生そして蔵書の一部が静岡学問所に移った。学問所頭には向山黄村、津田真一郎が任命され、中村正直、外山正一、加藤弘之、杉亨二らに代表される教授陣が従来からの漢学に加えて新たに洋学(蘭英仏学)を教授し、後に国学、洋算(数学)も教えられた。中村正直が明治3年スマイルズ「セルフ・ヘルプ」を「西国立志編」と題して静岡で翻訳・刊行し、これが福沢諭吉「西洋事情」内田正雄「輿地誌略」などとともに多くの人々に愛読されたことは、未だに記憶に新しい。
また、明治4年には米国人E・W・クラ−クを招いて伝習所を設立し、物理、化学の実験をはじめ数学、語学などを教えた。また彼は熱心なキリスト教徒で、中村正直はじめ多くの人々がその感化を受けた。
このように静岡学問所は、静岡藩教育の中核的な存在として、また沼津兵学校とともに当時の我が国を代表する最高学府としてひろく明治期における日本の教育・文化の充実・発展に貢献したが、明治5年の学制頒布により教授・学生はともに東京に引き上げ、8月廃校となった。
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