蔵書情報
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書誌情報サマリ
書名 |
焼津市史 資料編 2 古代・中世
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著者名 |
焼津市史編さん委員会/編集
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著者名ヨミ |
ヤイズ シシ ヘンサン イインカイ |
出版者 |
焼津市
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出版年月 |
2003.3 |
書誌詳細
この資料の書誌詳細情報です。
タイトル番号 |
1009810091302 |
書誌種別 |
地域資料 |
書名 |
焼津市史 資料編 2 古代・中世 |
著者名 |
焼津市史編さん委員会/編集
|
書名ヨミ |
ヤイズ シシ @ |
著者名ヨミ |
ヤイズ シシ ヘンサン イインカイ |
各巻書名 |
古代・中世 |
出版者 |
焼津市
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出版地 |
焼津 |
出版年月 |
2003.3 |
ページ数 |
629,9p |
大きさ |
22cm |
言語区分 |
日本語 |
分類 |
S223
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目次 |
口絵、序、凡例、第一部、古代、第一章、奈良時代以前、第二章、平安時代、第三章、出土文字資料、第二部、中世、第一章、鎌倉・南北朝・室町期、第二章、戦国期、解説、あとがき、花押・印章一覧、資料提供者名簿・調査協力者名簿、焼津市史編さん関係者名簿、出典一覧、細目次、第一部、古代、第一章、奈良時代以前、神話・伝承、五百原(廬原)君は、孝霊天皇の子である日子刺肩別命を始祖と伝承する。古事記、「焼津」の地名は、ヤマトタケルが相武国造に欺かれて火攻めに遭った際、向火によって難を逃れ、逆に相武国造を滅ぼしたことに由来する。古事記、「焼津」の地名は、ヤマトタケルが賊に欺かれて火攻めに遭った際、向火によって難を逃れ、逆に賊を滅ぼしたことに由来する。日本書紀、大井川の河曲に大木が流れ着いたという「遠江国司」の報告を聞いた仁徳天皇が、倭直吾子籠に命じて船を造らせ、難波に運んで官船としたと伝える。日本書紀、駿河国造は物部片堅石連公、矢集連は物部大母隅連公、矢田部連は武諸隅命、それぞれの後裔と伝承する。先代旧事本紀、珠流河国造は物部連片堅石命、廬原国造は池田坂井君思加部彦命、伊豆国造は物部連若建彦、それぞれの後裔と伝承する。先代旧事本紀、廬原公は、稚武彦命の後裔で、吉備津武彦命がヤマトタケルの東征に従った褒賞として廬原国を賜ったことに因むと伝承される。新撰姓氏録、矢田部造は、伊香我色雄命の後裔と伝承する。新撰姓氏録、天智二年(六六三)、この年、廬原君臣が百済の救援に向かう。日本書紀、この年、菴原公臣足が百済の救援に向かう。菴原公系図、神亀元年(七二四)、十月、駿河国信太郡夜梨里張城里の他田万呂がみえる。平城宮木簡、この年、益頭郡高楊郷中家里の他田部目里が堅魚を貢進する。平城宮木簡、天平七年(七三五)、十月、駿河国益頭郡高楊郷中家里の宇刀部毛人が堅魚を貢進する。平城宮木簡、十月、駿河国に益頭郡がみえる。平城宮木簡、十月、駿河国益頭郡から煎を貢進する。平城宮木簡、十月、駿河国志太郡大野郷田邑里に宇刀部がみえる。平城宮木簡、この年、駿河国益頭郡から堅魚煎を貢進する。平城宮木簡、この年、駿河国益頭郡高楊郷溝口里の薗部乙麻呂が堅魚を貢進する。平城宮木簡、天平八年(七三六)、この年、駿河国志太郡夜梨郷張城里の他田部真人が堅魚を貢進する。平城宮木簡、二月十八日、駿河国が進上した前年度分の正税帳に、益頭郡の記載がみえる。駿河国正税帳、天平十一年(七三九)、この年、駿河国が進上した前年度分の正税帳に、志太郡と益頭郡の記載がみえる。駿河国正税帳、天平十九年(七四七)、九月二十六日、駿河国益頭郡の五〇戸が、東大寺の食封とされる。東大寺要録、天平勝宝六年(七五四)、十月、駿河国志太郡から布乃理を貢進する。平城宮木簡、天平勝宝七歳(七五五)、十月、木簡に駿河国高楊郷がみえる。平城宮木簡、天平宝字元年(七五七)、八月十三日、駿河国益頭郡の 人、金刺舎人麻自が蚕の書いた文字を献上する。続日本紀、八月十八日、駿河国益頭郡の金刺舎人麻自が献上した祥瑞によって「天平宝字」と改元し、麻自に従六位上と絁二〇匹などを賜う。続日本紀、天平宝字2年(七五八)、三月、大井川の河辺から掘り出された木像が霊験を示す。日本霊異記、天平宝字三年(七五九)、焼津が和歌に詠まれる。万葉集、志太の浦が和歌に詠まれる。万葉集、上志太が和歌に詠まれる。万葉集、子持山が和歌に詠まれる。万葉集、神護景雲三年(七六九)、この年、菴原公首麻呂を廬原国造とする。廬原公系図、宝亀十年(七七九)、十一月十五日、駿河国を襲った七月十四日の豪雨により決壊した堤防修復のために人夫の動員を上申する。続日本紀、宝亀十一年(七八〇)、十二月十日、騰勅符により、諸事の封戸のうち提示された分は別に管理し、毎年の安居・国忌・雑斎会などに充てることとする。その中に駿河国益頭郡益頭郷に置かれた東大寺の封戸がみえる。新抄格勅符抄、第二章、平安時代、承和二年(八三五)、六月二十九日、水害対策として、駿河国富士川に浮橋を、大井川・安倍川に渡船を設置する。類聚三代格、貞観七年(八六五)、十二月二十一日、駿河国の大井神に、従五位下の神階を授ける。日本三代実録、貞観十五年(八七三)、八月四日、駿河国の美和天神を従五位上とする。日本三代実録、元慶二年(八七八)、四月十四日、駿河国の岐都咩命神と火雷神とを従五位下とする。日本三代実録、五月十七日、駿河国の美和天神を正五位下とする。日本三代実録、六月二十一日、出羽国の擾乱のため、駿河国に三十人の勇敢軽鋭の者を待機させるように命令が出される。日本三代実録、寛平年中(八八九~八九八)、この頃、駿河国の封戸から東大寺に納入された封物がみえる。東南院文書、延喜十二年(九一二)、四月、菴原高世が駿河国に下向する。菴原公系図、延喜十四年(九一四)、八月十五日、太政官厨家に関して定められた雑事五箇条のうち一箇条では駿河国などの例進地子雑物を定める。政事要略、別聚符宣抄、延長五年(九二七)、駿河国の式内社二二座の名が記載される。延喜式、駿河国の等級と郡名が記される。延喜式、駿河国への行程と調庸として定められた物品とその量が記される。延喜式、駿河国の出挙・正税・公廨稲やその他の雑稲の量が記される。延喜式、駿河国の駅馬・伝馬が記され、小川駅の駅馬と益頭郡の伝馬の数が規定される。延喜式、承平年間(九三一~九三八)、駿河国の志太・益頭の二郡とそれぞれの郷名が記される。和名類聚抄、倭名類聚抄、駿河国の駅が記載され、そのうちに小河駅がみえる。和名類聚抄、駿河国の七郡と官稲が記され、その内に志太・益頭の二郡が記される。倭名類聚抄、天慶三年(九四〇)、この年、菴原広統が、天慶の乱鎮圧の藤原忠文の軍に従う。菴原公系図、天暦四年(九五〇)、十一月二十日、東大寺が駿河国の封物を定める。そのうちに益頭郡益頭郷五〇 戸がみえる。東南院文書、東大寺要録、天暦十年(九五六)、六月二十一日、駿河国益頭郡の郡司、判官代、国の介が殺害されたため、この日、駿河国の国司と郡司に武装する許可を求める。朝野群載、天暦年中(九四七~九五七)、この頃、在原業平、宇津山で知り合いの僧に会い和歌を詠む。伊勢物語、正暦四年(九九三)、この頃、駿河国の相撲人が京で活躍する。今昔物語集、小右記、長徳元年(九九五)、この頃、源重之が「しだの浦」を詠む。重之集、長久元年(一〇四〇)、十一月、駿河国が東大寺の封戸調庸雑物を納入する。石崎直矢氏旧蔵文書、康平二年(一〇五九)、この頃、菅原孝標女、大井川の急流を見て驚く。更級日記、治暦三年(一〇六七)、正月二十日、左弁官が東大寺に、駿河国封戸からの調庸収納についての言上を命じる。百巻本東大寺文書、嘉保元年(一〇九四)九月二日、東大寺駿河国封戸からの上納に対する総返抄をつくる。東南院文書、永長元年(一〇九六)、十一月二十四日、駿河国に大地震あり、神社・寺院の舎屋・百姓四〇〇余が流出する。後二条師通記、天仁元年(一一〇八)、この年、伊勢神宮から提出された神領注文により、駿河国方上御厨などを神領として認める。神宮雑書、保安四年(一一二三)、十月九日、金光明寺から駿河国に返抄がもたらされる。東南院文書、十月九日、東大寺から駿河国に返抄がもたらされる。東南院文書、大治三年(一一二八)、八月、円勝寺に寄進された遠江国質侶牧の四至に大井河がみえる。弥勒如来感応指示抄一裏文書、大治四年(一一二九)、五月十三日、質侶牧の四至に大井川がみえる。宗性筆唯識論第五巻問答抄裏文書、十二月二日、駿河国方上御厨の神人と在庁官人の争いを太政官で銓擬する。中右記、大治五年(一一三〇)、十一月二十二日、駿河荘(益頭荘)を立てる際に、志太山はその範囲から除くこととする。長秋記、久安四年(一一四八)、五月十日、東大寺が駿河国封戸の納入状況を調べる。東南院文書、五月十六日、東大寺が駿河国の久安二年分の封戸の納入状況を報告する。東南院文書、久寿元年(一一五四)、この年以前、左弁官、駿河国小杉御厨の収公をはかる国司に、子細の言上を命じる。兵範記仁平四年夏巻裏文書、保元三年(一一五八)、十二月三日、極楽寺領のうちに、駿河国青山別宮の地名がみえる。石清水文書、治承元年(一一七七)、七月二日、小川尻の堂僧弁慶、大般若経を校正する。大正寺所蔵、治承三年(一一七九)、三月、遠江国質侶荘湯日郷の四至に大井河原がみえる。宗性筆唯識論第五巻問答抄裏文書、第三章、出土文字資料、木簡、藤原宮(一~二)、平城宮跡(三~九)、平城京跡(一〇~二一)、平安京跡(二二)、伊場遺跡(二三)、居倉遺跡(二四~二七)、御子ヶ谷遺跡(二八~三七)、秋合遺跡(三八~三九)、郡遺跡(四〇~五二)、水守遺跡(五三~五五)、墨書土器、1、旗指古窯跡、2、居倉遺跡、3、柳沢遺跡、4、御子ヶ谷遺跡、5、秋合 遺跡、6、萩谷2遺跡、7、山廻遺跡、8、宮塚遺跡、9、郡遺跡、10、水守1遺跡、11、水守2遺跡、12、清水遺跡、13、道場田遺跡、14、大覚寺遺跡、印章、銅印文(焼津市小川道場田遺跡出土)、第二部、中世、第一章、鎌倉・南北朝・室町期、文治二年(一一八六)、閏七月、源賴朝、方上御厨を伊勢神宮に寄進する。吾妻鏡、文治三年(一一八七)九月二十日、後白河法皇の院宣に、益頭庄のことがみえる。吾妻鏡、文治四年(一一八八)、五月十二日、蔵人頭藤原定長の奉書に、益頭荘のことがみえる。吾妻鏡、建久三年(一一九二)八月、伊勢神宮神領注文に、方上御厨や小楊津御厨などがみえる。神宮雑書、建久四年(一一九三)この頃、伊勢神宮の神領注文「神鳳抄」に、方上御厨や小楊津御厨などがみえる。神鳳抄、建仁三年(一二〇三)、三月、方上御厨の地頭職が伊勢神宮に寄進される。吾妻鏡、承元三年(一二〇九)、十一月八日、益頭荘の年貢が、鎌倉鶴岡八幡宮寺の常灯灯油料に充てられる。吾妻鏡、弘安八年(一二八五)、九月十八日、関東評定事書に、方上御厨のことがみえる。鎌倉幕府追加法、嘉元二年(一三〇四)、二月九日、熊野那智山御師寂円坊、小河一円等の檀那を証道房に譲る。米良文書、正和四年(一三一五)、九月十日、幕府、伊豆三島社神主伊豆厚盛の所領、駿河国良智郷などを安堵する。三嶋大社所蔵、建武二年(一三三五)、七月十二日、後醍醐天皇、西園寺公重に小楊津御厨などを安堵する。古文書纂、十二月十四日、足利尊氏、茂木知貞の領知する益頭庄を摂津親秀に充て行い、知貞には替地として下野国東茂木保を与える。茂木文書、延元四年(一三三九)、十月、伊勢神宮給人引付諸神領注文に、小楊津御厨などがみえる。給人引付諸神領注文写、暦応四年(一三四一)、八月七日、摂津親秀譲状のなかに、益頭庄焼津郷がみえる。美吉文書、貞和四年(一三四八)、十二月十日、足利直義、今川範国の知行する中根郷や八楠郷などの正税を免除する。今川家古文書写、観応二年(一三五一)、六月二十四日、将軍足利尊氏、佐々木貞氏に小椙郷などを充て行う。佐々木文書、九月八日、足利義詮、駿河守護今川範国に対し、田尻郷南村河原一色地頭職を細川元氏の代官に引き渡すよう命ずる。天龍寺文書、十一月十六日、伊達景宗らの今川軍、小河より出陣して駿河府中に討ち入る。駿河伊達文書、文和三年(一三五四)、十一月十二日、後光厳天皇、冷泉為秀に小楊津御厨を充て行う。冷泉家古文書、十二月七日、将軍足利尊氏、駿河守護今川範氏に、小楊津御厨を冷泉為秀の雑掌に引き渡すように命ずる。東京国立博物館所蔵、十二月二十二日、遠江守護今川範国、守護代長瀬掃部助に、初倉庄の本家米の上納を妨害する益井民部入道の濫妨を止めるように命ずる。南禅寺文書、延文三年(一三五八)、十一月十八日、将軍足利義詮、駿河守護今川範氏に、円勝寺から訴えがあった益頭庄の年貢対捍についての調査とそ の処置を命ずる。美吉文書、応安三年(一三七〇)、二月二十七日、鎌倉円覚寺の文書目録に、八楠郷の文書案がみえる。円覚寺文書、四月十五日、円覚寺領文書請取状に、今川範国の八楠郷寄進状が記されている。円覚寺文書、永和元年(一三七五)、某月六日、幕府、駿河守護今川泰範に、益頭庄へ課せられた役夫工米の催促を停止するように命ずる。美吉文書、康暦元年(一三七九)、六月十九日、将軍足利義満、益頭庄などを守護不入とする。美吉文書、永徳元年(一三八一)五月六日、細川正氏、所領田尻郷南村河原一色地頭職を、京都臨川寺に寄進する。天龍寺文書、七月二日、将軍足利義満、臨川寺に田尻郷南村河原一色地頭職を安堵する。天龍寺文書、永徳二年(一三八二)、この年、熊野那智山御師の檀那等配分目録に、花沢大進律師がみえる。米良文書、至徳元年(一三八四)六月、田尻南村の西賢、大般若経巻二八〇を書写する。鉄舟寺所蔵、明徳三年(一三九二)この頃、三月八日、駿河守護今川泰範、摂津能秀に益頭庄についての書状を送る。美吉文書、応永元年(一三九四)八月、永豊寺に雲版が奉納される。駿河志料、応永二年(一三九五)、四月三日、駿河半国守護今川貞世、田尻郷南村について、臨川寺住職に返書を遣わす。天龍寺文書、応永四年(一三九七)四月二十三日、幕府、駿河半国守護今川泰範に、益頭庄における役夫工米の徴収を止めるよう命ずる。美吉文書、応永六年(一三九九)六月十三日、幕府、駿河半国守護今川泰範に、益頭庄内の湊口を摂津能秀の代官に引き渡すよう命ずる。美吉文書、十二月十三日、方上御厨吉津村に、宝篋印塔が造立される。宝篋印塔銘、応永七年(一四〇〇)、十一月十三日、幕府、駿河守護今川泰範に、益頭庄を摂津幸夜叉丸の代官に引き渡すよう命ずる。美吉文書、応永八年(一四〇一)、三月十日、駿河守護今川泰範に、益頭庄における役夫工米の催促を止めるよう目代宛ての書状を記す。美吉文書、応永九年(一四〇二)、六月六日、幕府、駿河守護今川泰範に、益頭庄内における被官人の押妨を止め、その地を摂津幸夜叉丸の代官に引き渡すように命ずる。美吉文書、応永十年(一四〇三)、六月二十三日、幕府、駿河守護今川泰範に、被官人の押領する益頭庄内の地を、摂津幸夜叉丸の代官に引き渡すよう命ずる。美吉文書、応永十一年(一四〇四)、十二月十二日、幕府、摂津満親に、田尻郷を押領する臨川寺雑掌を退けるよう命ずる。古文書集、応永十六年(一四〇九)、十二月五日、伊勢神宮神主大中臣清世の譲状のなかに、方上御厨がみえる。神宮文庫所蔵、応永二十年(一四一三)、十月二十五日、遠江国守護代甲斐将教、狩野七郎左衛門尉に、初倉庄から小河湊へ運ばれる年貢米に対する、被官人の煩い行為を止めるように命ずる。南禅寺文書、応永二十四年(一四一七)、五月二十二日、伊勢神宮神主大中臣清基、所領方上御厨などを千代市丸に譲る。神宮文庫所蔵、応永二十五年(一四 一八)、十二月二十一日、将軍足利義持、田尻郷を守護不入とする。古文書集、十二月二十六日、幕府、駿河守護今川範政に、大草公範の所領田尻郷を守護不入としたことを伝える。足利将軍御内書幷奉書留、永享元年(一四二九)、四月二十六日、将軍足利義教、日野資任に、方上御厨などの所領を安堵する。将軍代々文書、享徳元年(一四五二)、二月六日、幕府、摂津之親が相続した所領益頭庄などを安堵する。美吉文書、六月十八日、御室仁和寺、摂津之親を益頭庄の代官とする。美吉文書、八月三十日、将軍足利義政、日野資任が子息烏丸氏光に譲った所領方上御厨などを安堵する。将軍代々文書、九月八日、幕府、摂津之親の益頭庄領家代官職を安堵する。美吉文書、長禄二年(一四五八)閏正月二十三日、小沼郷小河の住人四人が、熊野那智山に詣でる。米良文書、四月五日、熊野那智山檀那売券に、小河の烏帽子屋慶道がみえる。米良文書、寛正元年(一四六〇)、八月二十三日、摂津之親の家人置塩尾張守、益頭庄に下向するため京都を発つ。長禄四年記、寛正二年(一四六一)、三月十四日、熊野那智山御師周讃、方上御厨一二村の旦那を売却する。米良文書、文明五年(一四七三)、八月二十六日、招月庵正広、富士山を見るため藤枝の宿舎長楽寺を出て小川へ来る。正広日記、文明八年(一四七六)この年、小川の法永長者、駿河守護今川義忠の遺児竜王丸を保護する。今川記、今川家譜、文明十年(一四七八)八月、仁和寺の当知行所領目録に、益頭庄がみえる。仁和寺文書、文明十三年(一四八一)八月二十五日、田尻郷を担保として、長谷川善左衛門尉から三〇〇貫文を借りていた大草公友の債務が破棄される。国立公文書館所蔵、文明十七年(一四八五)、九月十九日、詩僧万里集九らの一行、小川湊に着き一泊する。梅花無尽蔵、長享元年(一四八七)、六月二十六日、熊野那智山御師橋爪坊良済、駿河国長谷川一族檀那を売却する。米良文書、十月十五日、北野天満宮寺領目録に、田尻郷南村河原一色がみえる。北野神社古文書、延徳三年(一四九一)、五月六日、幕府、駿河守護今川竜王丸に、田尻郷南村河原一色を北野天満宮寺の雑掌に引き渡すよう命ずる。北野社家日記、明応元年(一四九二)、六月、池田彦左衛門尉宗家、小川に上行寺を建立する。日海記、第二章、戦国期、明応七年(一四九八)、七月二十八日、今川氏親、藁科中務丞に益頭庄岡田郷などを充て行う。多門貞夫氏所蔵、八月二十五日、大地震による津波で、小川の上行寺が流失する。日海記、妙法寺記、皇代記、文亀元年(一五〇一)、八月、林叟院住職賢仲繁哲、遠江大洞院に輪住する。石雲院所蔵、十一月十三日、賢仲繁哲、遠江大洞院において「五灯会元抄」を書写し校合する。静居寺所蔵、文亀二年(一五〇二)、六月、伊勢神宮御師恵順、石津・中根などの道者を売却する。橋村家文書、永正七年(一五一〇)、四月二十一日、林叟院住職賢仲繁哲、臘の次第を記す。林叟院所蔵、 八月、賢仲繁哲、石雲院に輪住する。石雲院所蔵、永正十三年(一五一六)、十月十二日、連歌師宗長、法永長者追悼百韻を詠む。旧御師浦田家所蔵、大永元年(一五二一)、九月六日、熊野那智山御師橋爪坊良政、駿河国長谷川名字分一円の檀那を売却する。米良文書、大永六年(一五二六)二月十一日、小川の長谷川元長のもとに連歌師宗長が立ち寄る。宗長日記、四月十四日、今川氏親の定めた「仮名目録」のなかに、焼津郷のことがみえる。今川仮名目録、七月二日、今川氏親(増善寺殿喬山紹貴大禅定門)の葬儀が増善寺で行なわれ、林叟院住職兆山岱朕が六導師のひとりを勤める。増善寺所蔵、七月、小川の西光寺住職尊誉と教念寺住職念誉が、香衣を勅許される。お湯殿上の日記、享禄二年(一五二九)、六月、野秋の弘徳院に、雲版が奉納される。駿河志料、享禄四年(一五三一)、正月、志太山の山札が交付される。木簡銘、この頃、大道寺盛昌の書状に、石脇城のことがみえる。江梨鈴木文書、天文二年(一五三三)、八月十三日、冷泉為和、歌集のなかに元所領であった小柳津などのことを書き付ける。為和集、天文四年(一五三五)、二月十三日、冷泉為和、歌集のなかに再び元所領であった小柳津などのことを書き付ける。為和集、天文五年(一五三六)、十二月三日、今川義元、岡部親綱の方上城などにおける戦功に対し、小柳津真金名などを充て行う。土佐国蠹簡集残篇、天文八年(一五三九)十二月十四日、今川義元、駿府浅間宮神主村岡宮千代に、神役を滞納する八楠郷などに催促を加えるよう命ずる。村岡文書、天文十八年(一五四九)、八月十一日、駿府浅間宮社役目録に、八楠郷などがみえる。旧村岡大夫文書、天文二十年(一五五一)、七月十五日、今川義元が安堵した駿河臨済寺の寺領のなかに益頭庄保福島がみえる。臨済寺所蔵、弘治元年(一五五五)、この頃、駿府臨済寺塔頭・末寺帳に、小川の永豊寺などがみえる。臨済寺所蔵、永禄元年(一五五八)、八月十三日、今川氏真が安堵した駿府浅間宮の流鏑馬役負担の郷のなかに、八楠郷などがみえる。静岡浅間神社所蔵、永禄三年(一五六〇)、三月十二日、今川義元が清水湊の藤次郎に、湊役など免許を安堵した文書に、小川や石津の湊がみえる。寺尾陽三氏所蔵、九月十五日、今川氏真が清水湊の藤次郎に、湊役などの免除を安堵した文書に、小川や石津の湊がみえる。寺尾陽三氏所蔵、永禄四年(一五六一)、六月十一日、今川氏真、焼津郷入江大明神の修理費を、神領の百姓に負担させる。焼津神社所蔵、永禄五年(一五六二)、この頃、駿府在住の歌人相玉長伝、花沢の寺を訪れて歌を詠む。心珠詠藻、永禄七年(一五六四)、二月、羽鳥建穂寺で真読された大般若経の奥書に、大檀那として長谷川能長の名がみえる。建穂寺編年、永禄八年(一五六五)、七月、焼津の長谷川七郎衛門ら、白山美濃口にあたる越前石徹白の桜井家に、宿泊契約状を提出する。石徹白神社文書、永禄十二年(一 五六九)、正月十七日、武田信玄、青島五郎兵衛尉に大覚寺などを充て行う。判物証文写、正月十八日、駿府臨済寺領書立に、保福島などがみえる。臨済寺所蔵、正月二十六日、今川氏真、四宮泰雄に小田村や小河の人夫などを充て行う。某氏所蔵、四月十三日、武田信玄、岡部雅楽助に、越後島などを充て行う。反町文十郎文書、元亀元年(一五七〇)、正月十日、武田信玄、花沢城に大原資良が在城していることを徳川家康に報じる。古文書写、正月二十七日、土屋木工左衛門尉に、田尻の内等を充て行う。早稲田大学図書館所蔵、二月五日、大原資良、鈴木源六に花沢城での戦功に対し感状を与える。阿波国古文書、二月九日、武田信君、興津左近助に小柳津などを充て行う。諸家文書纂所収興津文書、十二月四日、武田家、某に八楠郷内八〇貫文の地を充て行う。判物証文写、元亀二年(一五七一)、正月三日、武田信玄から北条綱成への書状のなかに、花沢城落城のことがみえる。歴代古案、元亀三年(一五七二)、正月十日、武田家、海野弥兵衛尉に八楠郷の内などを充て行う。判物証文写、二月、林叟院住職哉応宋咄(天竜円鑑禅師)、弟子寄堂全林に血脈を与える。一乗寺所蔵、この頃、林叟院住職哉翁宋咄(天竜円鑑)、大乗菩薩戒文を弟子寄堂全林に付与する。一乗寺所蔵、九月二日、武田家、向(向井)伊賀守に花沢山などでの竹木伐採について許可を与える。甲州古文集、天正元年(一五七三)、十月朔日、武田勝頼、小浜景隆に小柳津の内・小川の内などを充て行う。小浜文書、十月二十一日、武田家、神尾左近丞に保福島の内などを充て行う。判物証文写、天正二年(一五七四)、閏十一月十一日、武田家、深山宗三に良知郷の内を充て行う。竹重文書、天正四年(一五七六)、八月五日、朝比奈信置、井出伝衛門尉に方上の内などを充て行う。井出潔氏所蔵、八月一四日、武田勝頼、土屋木工左衛門尉に田尻の内などを安堵する。早稲田大学図書館所蔵、天正七年(一五七九)、九月五日、徳川家康、朝比奈泰勝に小田村や良知郷などを充て行う。書上古文書、九月十九日、当目坂と用宗(持船)城において、徳川勢と用宗城の兵が合戦する。家忠日記、十月十六日、武田勝頼、向井兵庫助に小河の内や中根の内などを安堵する。清和源氏向系図、十月二十五日、武田家、海野弥兵衛尉に八楠の内などを安堵する。駿河志料、天正八年(一五八〇)、八月二十八日、朝比奈信置、原川新三郎に文衛門屋敷などを与える。原川弘志氏所蔵、十二月十九日、武田勝頼、御宿若丸に父監物友綱の譲りに任せて、焼津などを安堵する。村松定孝氏所蔵、天正九年(一五八一)、五月、当目において、徳川勢と用宗城の朝比奈勢が合戦する。松平乗承所蔵古文書、六月二十三日、朝比奈信置、藤五郎に方上の内吉津方などを、八郎らに方上の定夫などを安堵する。土佐国蠹簡集残篇、十月十三日、岡部俊具、越後島百姓彦左衛門尉の名職を安堵する。判物証文写、天正十年(一五八 二)、二月二十一日、徳川家康、当目郷に対する軍勢の濫妨を禁ずる。原田昇左右氏所蔵、二月二十一日、松平家忠、敗走する武田軍を追って、当目を越えて用宗に陣を取る。家忠日記、三月二十九日、徳川家康、織田信長より駿河国を与えられる。信長記、四月十四日、織田信長、甲斐より駿河に入り、この日田中に至る。家忠日記、七月四日、徳川家康、遠江から駿河に入り、この日田中に至る。家忠日記、八月十四日、高力清長、横須賀衆青島五郎兵衛に、志太郡本郷村の内を与える。駿河記、八月十八日、徳川家康、穴山勝千代に、駿河国山西などの旧領を安堵する。譜牒余録、十一月二十六日、徳川家康、三浦本成に、方上の内などを与える。旧三浦文書、天正十二年(一五八四)、八月二十六日、坂本貞次ら、方上惣郷等に、軍備を整えて参陣するように命ずる。原川弘志氏所蔵、天正十七年(一五八九)、五月二十八日、西郷久尚、原川新三郎に、谷の屋敷を返す。原川弘志氏所蔵、七月七日、徳川家康、領国内の郷村に、七ヵ条の定書を交付する。河合信夫氏所蔵、原川弘志氏所蔵、良知淳行氏所蔵、山田文書、大富村史、駿河志料、十一月二十四日、徳川家長谷川長綱等、松平九郎右衛門に、良知郷などを与える。水月名鑑、天正十八年(一五九〇)、正月、豊臣秀吉、駿河国に禁制を下す。河合信夫氏所蔵、原川弘志氏所蔵、二月二十日、徳川家伊奈忠次、朝比奈泰勝に、良知郷の内などを与える。某氏所蔵、三月十八日、豊臣秀吉、駿河に入り、この日田中に至る。家忠日記 |
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所蔵館 |
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帯出区分 |
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貸出
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1 |
0005661053 | 県立図書館 | S223/126/ | 閲覧室 | 地域資料 | 貸可資料 | 在庫 |
○ |
2 |
0005661061 | 県立図書館 | S223/126/ | 書庫5 | 地域資料 | 貸禁資料 | 在庫 |
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