[蘭和辞典の系譜]
18世紀末ごろから、ロシアの南下とともに外国事情への関心も高まっていった。このような中で、蘭学への啓蒙と教育が必要となり、そのための不可欠のものとして辞書の編纂や語学入門書の著述があげられる。
<蘭和辞典の系譜>
阿蘭陀通詞(おらんだつうじ)西善三郎は晩年(1760年代末)、
マリ−ン「蘭仏大辞典」(Pierre Marin「Groot Nederduitsch en Fransh Woordenboek」<AN−150>)
によって蘭和辞書の編纂を試みたが完成しなかった。
稲村三伯〜いなむらさんぱく〜(1758−1811)は数名のものと協力して、
フランソアハルマ「蘭仏辞典」(Francois Halma「Woordenboek der Nederduitsche en Fransche Taalen」<AN−79>)
をもとにして寛政10・11年(1798・99年)頃、
「ハルマ和解」(江戸ハルマ)<K070−2>
を刊行した。
「江戸ハルマ」は入手困難であり、大部でもあったので、三伯の門人藤林普山(泰助)は約3万語に縮めて文化7年(1810)、コンサイス版として
「訳鍵」(やくけん)<K080−7、K021−50>
を刊行した。さらに大野藩の広田憲寛(ひろたのりひろ)は「訳鍵」を増補し、訳語を改訂して安政4年(1857)
「改正増補 訳鍵」<K021−50>
を刊行した。
これとは別に、オランダ商館長ヘンドリック・ヅ−フは、ハルマ「蘭仏辞典」をもとにオランダ通詞と協力して、蘭和辞書の作製を始めた。文化8・9年(1811・12)頃のことである。こうして出来上がったものが
「ヅ−フハルマ」(長崎ハルマ)<K070−3>
である。この辞書の需要は大変多く、大阪の適塾では塾生が注文に応じて写本を作ったという話が、福沢諭吉「福翁自伝」に見える。なお、韮山町郷土資料館にも江川家所蔵の写本(ただし端本)が展示されている。
この辞書はなかなか出版されなかったが、ペリ−来航後、桂川甫周(かつらがわほしゅう)が許可を得て改訂増補し、
「和蘭字彙」(おらんだじい)<AN−283>
として刊行した。(前編が安政2年、後編が同5年)
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