江戸後期・明治初期の歴史/明和・天明期(1764年〜1789年)
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1[明和・天明期(1764年〜1789年)]

 17世紀に入ると、ロシアはシベリア東部の積極的な経営に乗り出し、18世紀にはイギリス、フランスも未だ地理的状況の明らかでない、日本の北方領土(カラフト=サガリン、蝦夷地=北海道、千島)に強い関心を抱き、探検船を派遣した。また、イギリス、アメリカの北方海域での捕鯨業は盛んとなり、ロシアはラッコなどの海獣の猟場をもとめて、アリューシャン列島から次第に千島列島を南下して来た。そして、彼らは日常雑貨品や燃料、水、食料の供給、また、遭難船を救助してもらうための寄港地を求めた。

 享保改革(18世紀半、8代吉宗)のあと、明和・天明期、いわゆる田沼時代(18世紀後半)になると、ロシア船の阿波国(あわのくに)漂着事件(1771年、明和8)や蝦夷厚岸(エゾアッケシ)来航事件(1778年、安永7)などもあり、1783年(天明3)には仙台藩医工藤平助は「赤蝦夷風説考」(あかえぞふうせつこう)を書いて、幕府に蝦夷地開拓の急務を提唱した。それによって、田沼政権は北方問題の重要性を認識し、1785年(天明5)青島俊蔵、最上徳内(もがみとくない)らに蝦夷地の巡検を命じ、翌年最上徳内は単身、南千島のエトロフ島とウルップ島に上陸して調査した。一方、大石逸平はカラフト探検を行ったが、田沼政権の崩壊によって蝦夷地調査も中断した。

 
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