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書誌情報サマリ

書名

金谷町史 資料編 1    古代中世 

著者名 金谷町史編さん委員会/編集
著者名ヨミ カナヤ チョウシ ヘンサン イインカイ
出版者 金谷町役場
出版年月 1997.3


書誌詳細

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タイトル番号 1009710051586
書誌種別 地域資料
書名 金谷町史 資料編 1    古代中世 
著者名 金谷町史編さん委員会/編集
書名ヨミ カナヤ チョウシ   @
著者名ヨミ カナヤ チョウシ ヘンサン イインカイ
各巻書名 古代中世
出版者 金谷町役場
出版地 金谷町
出版年月 1997.3
ページ数 402,8p
大きさ 22cm
言語区分 日本語
分類 S231
目次 口絵、発刊にあたって、凡例、目次、編年史料要約文細目次、古代、神話・伝承、奈良時代、平安時代、中世、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国時代、解説、あとがき、索引、編年史料要約文細目次、古代、年月日未詳、天照大神が須佐之男命と天安河に誓約して生んだ五柱の神の中の建比良鳥命は、遠江国造らの祖という。(古事記)、応神天皇二年三月壬子、応神天皇、仲姫を立てて皇后とする、という。その子大山守皇子は榛原君らの始祖という。(日本書紀)、年月日未詳、大山守命、皇位を得ようと、弟宇遅能和紀郎子を殺そうとするが、反対に討たれ、那良山に葬られる、という。大山守命は榛原君らの祖という。(古事記)、仁徳天皇六十二年五月、仁徳天皇が大井川の河曲に大木がかかったという遠江国司の報告を聞き、倭直吾子籠を遣わして船を作らせ、難波津に運んで御用船にした、という。(日本書紀)、年月日未詳、遠江国造、佐夜直らの系譜が、『先代旧事本紀』にみえる。(先代旧事本紀)、年月日未詳、遠淡海国造らの系譜と国造任命の由来が、『先代旧事本紀』にみえる。(先代旧事本紀)、年月日未詳、摂津国の榛原公は息長真人と同祖で、大山守命の子孫という。(新撰姓氏録)、年月日未詳、河内国の榛原氏は応神天皇の皇子、大山守命の子孫という。(新撰姓氏録)、神亀三年丙寅(七二六)十二月二十四日、遠江国の五郡が水害にあう。三年を限って救済する。五郡に榛原郡も含まれるか。(続日本紀)、天平五年癸酉(七三三)九月二十三日、遠江国榛原郡の人、君子部真塩女が三つ子を産む。大税二百束と乳母一人を賜る。(続日本紀)、天平宝字二年戊戌(七五八)三月、遠江国榛原郡の鵜田里の川辺の砂の中から薬師仏の木像を堀り出し、里内に堂を造って供養し、鵜田堂と名づける、という。(日本国現報善悪霊異記・今昔物語集・元亨釈書)、宝亀二年辛亥(七七一)三月四日、私物をもって窮民二十人以上を救った遠江国榛原郡主帳無位赤染造長浜らが、爵二級を賜わる。(続日本紀)、宝亀八年丁巳(七七七)四月十四日、遠江榛原郡の人、従八位下赤染長浜ら三六人が、常世連の姓を与えられる。(続日本紀)、延暦十五年丙子(七九六)三月七日、左大臣従四位上菅野朝臣真道の奏により、榛原郡の人物部古丸の冥界での願を入れ、経誌四人を召し、法華経一部を写させ、平城宮の野寺に大法会を営む、という。(日本国現報善悪霊異記・元亨釈書)、大同元年丙戌(八〇六)この年、遠江国に伊勢大神・大神神・片岡神・多神の封戸が定められる。(新抄格勅符抄)、天長九年壬子(八三二)七月八日、借外従五位下榛原公高■、外従五位下を授けられ る。(類聚国史)、承和二年乙卯(八三五)六月二十九日、遠江・駿河両国の境をなす大井川の渡船二艘を増置し、四艘とする。その購入の費用は正税をあてる。(類聚三代格・類聚国史)、承和十四年丁卯(八四七)八月十七日、遠江国榛原郡の人、泰黒成女が一度に二男一女を産む。 正税稲三〇〇束と乳母一人を賜わる。(続日本後記)、仁寿三年癸酉(八五三)十一月二十七日、遠江国の敬満神霊を明神とする。(日本文徳天皇実録)、貞観四年庚子(八八〇)この年、遠江榛原郡の百姓口分田の水害による被害を、使を遣わして点検させる。(日本三代実録)、仁和元年乙巳(八八五)四月十七日、遠江榛原郡の流損あるいは埋没した百姓口分田三百六十七町六段四十八歩の代りに、不堪佃田を授ける。(日本三代実録)、延喜五年乙丑(九〇五)四月十八日、『古今和歌集』が撰進され、小夜の中山を詠んだ歌が収められる。(古今和歌集)、延喜十五年乙亥(九一五)この年、相模守となった藤原宗于、小夜の中山を詠む。(宗于朝臣集・後撰和歌集)、延長五年丁亥(九二七)十二月二十六日、『延喜式』が撰進され、遠江国の諸事が定められる。(延喜式)、承平年中(九三一-九三六)年月日未詳、源順、『倭名類聚抄』を撰述し、遠江国の諸事を記す。(倭名類聚抄・色葉字類抄・伊呂波字類抄・捨芥抄)、寛仁四年庚申(一〇二〇)この年、相模守大江公資の任国への下向に、妻相模がともなう。その和歌に、ことのままの明神が見える。(相模集)、この年、菅原孝標の娘、父に従って京に帰る途中、大井川を渡り、小夜の中山を越える。(更級日記)、長久元年庚辰(一〇四〇)これより先、大江公資が遠江守となる。(後拾遺和歌集・玄々集・尊卑分脈)、承保三年丙辰(一〇七六)十月、陸奥守橘為仲、任国への下向中、小夜の中山を詠む。(水左記・橘為仲集)、寛治四年庚午(一〇九〇)この年頃、高階経敏、相模守として任国へ下向中、小夜の中山を詠む。(散木奇歌集)、長治二年乙酉(一一〇五)三月、この月以降、翌年五月までの間に、堀河天皇に小夜の中山等の名所を詠んだ類聚百首和歌を奏覧する。(堀河院御時百首和歌)、永久元年癸巳(一一一三)十月十四日、遠江守源基俊、質侶牧領域内の湯日谷を収公した釈明の請文を提出する。(宗性筆唯識論第五巻問答抄紙背文書)、十月十五日、質侶牧領域内の湯日谷を収公した遠江守源基俊の請文に、大蔵卿藤原為房が副 状を記す。(天理大学付属天理図書館所蔵文書)、大治三年戊申(一一二八)八月、藤原永範、子々孫にわたり荘官を受け継ぐことなどを条件に、質侶牧を円勝寺に寄進する。(宗性筆弥勒如来感応指示抄一紙背文書)、十二月、待賢門院庁、質侶牧の領域内を調査し、荘園として認定することを遠江国衙に督促する。(宗性筆唯識論第五巻問答抄紙背文書)、大治四年己酉(一一二九)三月二十八日、質侶牧領域内の調査が終了し、円勝寺の荘園として認定される。(宗性筆唯識論第五巻問答抄紙背文書)、三月二十八日、質侶牧の立券における調査で、在家二一八軒を確認する。(宗性筆最勝講聴衆記紙背文書)、この頃、質侶牧の領域を記した文書に、横岡村等の名が見える。(宗性筆最勝講聴衆記紙背文書)、五月十三日、待賢門院庁、遠江国衙に質侶牧の東西南北の境界に■示をうつことを命じる。 (宗性筆唯識論第五巻問答抄紙背文書)、五月十三日、遠江守高階宗章、在庁官人らに質侶牧の東西南北の■示をうつことを命じる。(宗性筆唯識論第五巻問答抄紙背文書)、保延二年丙辰(一一三六)正月十八日、伯鱗秀時が願主となり如法経の埋納を行う。(蘆鶴文鏡銘)、治承二年戊戌(一一七八)四月二十六日、藤原永範、質侶荘の預所職を質侶本荘・大楊郷・湯日郷に分割し、その男女に贈与する。(宗性筆唯識論第五巻問答抄紙背文書)、治承三年己亥(一一七九)三月、遠江国質侶荘内湯日郷の四至を、田所散位源某が注進する。(宗性筆唯識論第五巻問答抄紙背文書)、治承四年庚子(一一八〇)五月二十六日、これより先、源頼政の詠んだ和歌に小夜の中山がみえる。(頼政集)、中世、元暦元年甲辰(一一八四)三月、平重衡、鎌倉へ護送の途中、小夜の中山をこえる。(平家物語)、文治元年乙巳(一一八五)五月、鎌倉に護送される平宗盛父子、小夜の中山・菊川宿を通過する。(源平盛衰記)、文治二年丙午(一一八六)この年、西行、陸奥下向の途中、さやの中山で和歌を詠む。(西行上人集・西行物語絵巻)、建久元年庚戌(一一九〇)八月十九日、源頼朝、円勝寺領質侶荘地頭板垣兼信の改易を、後白河法皇に言上する。(吾妻鏡)、九月十七日、源頼朝、円勝寺領質侶荘地頭板垣兼信の流罪により、替りの地頭を補任しないことを奏上する。(吾妻鏡)、十月十三日、源頼朝、上洛の途中、菊川宿で佐々木盛綱より鮭の楚割を進上される。(吾妻鏡)、建久四年葵丑(一一九三)五月、曽我兄弟の仇討ちの際、和田義盛の郎等として志戸呂源七の名が見える(曽我兄弟物語)、承元三年己巳、(一二〇九)二月六日、某、質侶荘湯日郷を藤原有夜叉に譲る(宗性筆唯識論第五巻問答紙背文書、宗性筆倶舎第二十四巻要文抄背文書)、建歴元年辛未(一二一一)この年、鴨長明、小夜の中山東麓の事任社前で、琵琶法師と語る(発心集、閑谷集)、承久三年辛巳(一二二一)七月十日、承久の乱により、関東に召喚された中御門宗行、菊川駅の旅宿の柱に漢詩を記す(五妻鏡、承久記)、七月十三日、中御問宗行、駿河国浮島原で、藤原光親の遺骨を携えた召使と遇い、和歌を詠む(五妻鏡)、閏十月、東大寺宗性、質呂荘湯日郷の返付を、朝廷に訴える(宗性筆倶舎論第八九巻抄紙背文書)、貞応二年葵未(一二二三)四月十二日、海道記の作者某、東海道を下り、この日、小夜の中山、菊川宿を経て大井川を渡る(海道記)、嘉録元年乙酉(一二二五)二月、塩屋朝業(信生)、京都から関東に下る途中、小夜の中山、菊川宿で和歌を詠む(信生法師日記)、仁冶三年壬寅(一二四二)八月、東関紀行の作者某、東海道を下り、小夜の中山、菊川、大井川を通る(東関紀行)、建長四年壬子(一二五二)三月二十六日、鎌倉に向かう宗尊親王、掛川を経て菊川に着く(五妻鏡、宗尊親王鎌倉御下向記)、康元元年丙辰(一二五六)五月八日、長井泰経、菊川において戦死するという(福原家譜)、弘長二年壬戌(一二六二)三月、 推進僧某が千手観音寺に奉納した縣仏に、大井川の文字がみえる(縣仏光背銘)、文永二年乙丑(一二六五)二月七日、遠江国三代起請地、三社領注文が作成され、円勝寺領質呂荘がみえる(教壬護国寺文書)、文永三年丙寅(一二六六)七月、宗尊親王、将軍の地位を追われて京都に帰る途中、小夜の中山、菊川で和歌を詠む(中書王御詠)、建治元年乙亥(一二七五)八月、飛鳥井雅有、鎌倉下向の途中、小夜の中山、菊川で和歌を詠む(飛鳥井雅有日記、隣女集)、建冶三年丁丑(一二七七)十月二十四日、阿仏尼、訴訟のため鎌倉に下る途中、小夜の中山を越える(十六夜日記、如法寺殿紀行)、弘安六年癸未(一二八三)春、入宋僧龍峯宏雲、遠江国相良郷に平田寺を開創するという、寺伝に小夜の中山、菊川宿接待所などの逸話がみえる(平田寺草創記、遠江古迹図会)、この頃、『沙石集』に駿河、遠江、伊豆三国所々の仏教説話をのせる、その一つに菊川がみえる(沙石集)、弘安頃、高階宗成が、東海道の宿々を詠んだ長唄に、小夜の中山、菊川がみえる(遺鹿和歌集、他阿上人家集、明日香井和歌集、続千載和歌集、新拾遺和歌集、続後撰和歌集、続門葉和歌集、風雅和歌集、藤谷和歌集、権大納言俊光集)、永仁四年丙申(一二九六)五月十三日、伏見天皇、相良荘内の田地等を、菊川宿接待所の所領とする(平田寺文書、平田寺草創記)、正安二年庚子(一三〇〇)十一月三日、菊川の長翺、京都の東福寺の開山塔常楽庵拝塔の偈をつくる(常楽拝塔偈)、応長元年辛亥(一三一一)秋、三河国足助郷領主長崎某の馬が、金谷まで遁送するも、立願により戻ってきたという(足助八幡宮縁起)、元徳三年、元弘元年辛亥(一三三一)七月十一日、日野俊其が六波羅に捕えられ、鎌倉に護送される途中、小夜の中山、菊川宿、大井川を通過する(太平記)、建武二年乙亥(一三三五)八月十二日、中先代の乱により鎌倉に下向する足利尊氏、小夜の中山で合戦し勝利する(国立国会図書館所蔵文書、太平記、梅松論、難太平記)、文和元年、正平七年壬辰(一三五二)正月、佐藤元清、前年の小夜の中山等での合戦における軍忠を上申する(佐藤文書)、これより先、宗良親王、小夜の中山で和歌を詠む(季花和家集)、この頃、宗久、東国へ旅行し、小夜の中山で和歌を詠む(都のつと)、応安二年、正平二十四年己酉(一三六九)十一月、大方等大集月蔵経の助縁者の中に、遠江国榛原郡金屋村衆らが見える(大方等大集月蔵経)、嘉慶元年、元中四年丁卯(一三八七)六月、『諸国一見聖物語』に、小夜の中山、新坂、菊川の名が見える(諸国一見聖物語、謡曲小夜の中山)、応永二十一年申午(一四一四)十月一日、沙弥行一、大代の白山神社に鰐口を奉納する(鰐口銘)、応永三十二年乙己(一四二五)八月十一日、足利義持、質侶荘領家職半分を、京都清和院に寄進する(清和院文書)、応永三十三年丙午(一四二六)十一月十八日、幕府、質呂荘領家職半分を、京都清和院に安堵する(清和院文書)、 永享三年辛亥(一四三一)三月五日、足利義政、質侶荘等を京都清和院に安堵する(清和院文書)、永享四年(一四三二)九月十七日、足利義政、富士暦覧の途中、小夜の中山、菊川を経て大井川を渡河する(九条満家公引付、富士紀行、覧富士記、看聞日記)、文安五年戌辰(一四四八)十二月、道玄、質侶荘黒沢の山宮に鰐口を奉納する(鰐口銘)、長録二年戌寅(一四五八)八月十日、足利義政、質侶荘金屋郷を、京都清和院に安堵する(清和院文書)、応仁二年戌子(一四六八)十二月十五日、京都より鎌倉までの宿次の中に菊河が見える(大乗院記録、実暁記)、文明五年癸巳(一四七三)八月十六日、正広、駿河国に旅立ち、この日、遠江国に入る、以後、小夜の中山など緒所で和歌を詠む(正広日記)、文明七年乙未(一四七五)、この年、今川義忠、遠江国人横地、勝間田氏と、小夜の中山付近で戦う(今川家譜、東常縁集)、文明十二年庚子(一四八〇)六月、太田道灌、上洛の途中、金谷駅、菊川にて和歌を詠むという(平安紀行)、延徳三年辛亥(一四九一)八月二十四日、足利義材、質侶荘金屋郷等を、京都清和院に安堵する(清和院文書)明応五年丙辰(一四九一)九月二十六日、今川氏親、長松院に金屋郷内の地を寄進する(長松院文書)、明応八年己未(一四九九)六月八日、飛鳥井雅泰、富士暦覧の途中、小夜の山中にて和歌を詠む(富士暦覧記)、永正二年乙丑(一五〇五)八月五日、今川氏親、金屋郷内宮田名等を、長松院に安堵する(長松院文書)、永正十年癸酉(一五一三)九月、三条西実隆、富士見物中の道堅からの音信に、小夜の中山を詠んだ返歌を送る(再昌草)、大永二年壬午(一五二二)五月、宗長、北国に向けて旅立ち、小夜の中山を越える(宗長手記)、大永六年丙戌(一五二六)二月二十日、宗長、上洛の途中、金谷に一宿して、和歌を詠む(宗長手記)、大永七年丁亥(一五二七)四月、宗長、京都からの帰途、金谷に一泊し、和歌を詠む(宗長手記)、天文元年壬辰(一五三二)十一月二十日、金屋住人横山久次、竜庵寺に雲版を寄進する(雲版銘、日本洞上聨燈録)、天文二年癸巳(一五三三)十一月、仁和寺尊海、東海道を下り、小夜の中山、菊川宿、大井川で和歌を詠む(あつまの道の記)、天文六年丁酉(一五三七)六月九日、今川義元、金屋郷深谷内宮田名等を、長松院に安堵する(長松院文書)、天文七年戊戌(一五三八)十一月、大代助二郎、大法天王社に鰐口を寄進する(鰐口銘)、天文十三年甲辰(一五四四)十二月十六日、これより先、宗牧、京都より東国に旅立つ、この日、小夜の中山、大井川を通過する(東国紀行)、天文十六年丁未(一五四七)、この頃、今川義元の命を受けた太原崇孚、三河に出陣し、軍勢が大井川、小夜の中山を通過する(三河物語)、天文年間(一五三二-五五)、この頃、大村家盛ら、武蔵国池上本門寺等参詣の途中、小夜の中山、金屋を通過する(参詣道中物語)、弘次二年丙辰(一五五六)九月二十三日、山科言継、 駿河下向の途中、小夜の中山を越え、菊川、金屋、大井川を経て藤枝に一宿する(言継鄕記)、弘冶三年丁巳(一五五七)三月二日、山科言継、駿河より帰洛の途中、金屋、小夜の中山を通過する(言継鄕記)、永禄三年庚申(一五六〇)五月十二日、尾張に出陣する今川義元の軍政が、金屋を通過する(三河物語)、六月八日、今川氏真が岡部元信に返付した本領に、桐山の名が見える(岡部文書)、九月二十一日、今川氏真、長松院に、金谷深谷内宮田名等の寺領を安堵する、長松院文書、永禄八年乙丑(一五六五)七月二十六日、今川氏真、深谷郷の内を、本領として孕石元康に返付する(孕石文書)、永禄九年丙寅(一五六六)、この年、城東郡平尾八幡の鐘銘に、大工質侶荘横岡藤左衛門の名が見える(掛川誌稿)、永禄十年丁卯(一五六七)五月九日、里村紹巴、富士見物のため下向し、この日、遠江国に入り、小夜の中山、金谷を通過する(紹巴富士見道記)、永禄十一年戌辰(一五六八)二月十六日、これより先、武田晴信(信玄)、駿河侵攻にあたり、徳川家康に今川両国を大井川を境として分割することを通知する(武徳編年集成、田島文書、浜松御在城記)、十二月六日、武田晴信(信玄)、駿河国に向け出陣する(家忠日記増補追加、甲陽軍艦、三河物語)、永禄十二年己巳(一五六九)正月八日、武田晴信(信玄)、秋山信友以下下伊奈衆を、駿府に撤退させることを、徳川家康に伝える(古今消息集)、正月二十八日、徳川家康、深谷、金屋、菊川等を朝比奈十左衛門尉らに給与する(朝比奈文書)、四月十五日、武田晴信(信玄)、孕石元康に、深谷郷等を安堵する(土佐国蠧簡集残編)、五月六日、徳川家康、縣川城洛後、金谷、大井川周辺を巡見し、武田方の山県昌景と戦う(家忠日記増補追加、甲陽軍艦、浜松御在城記)、十一月七日、武田晴信(信玄)、駿河を攻める、諏訪原に砦を築くも、徳川家康に攻め、落される、武徳編年集成、元亀二年辛未(一五七一)二月二十四日、武田晴信(信玄)、遠江に出陣し、小山城、滝堺城を築く(武徳編年集成)、三月四日、武田晴信(信玄)、孕石元康に、深谷郷等を与える(孕石文書)、元亀三年壬申(一五七二)閏正月、徳川家康、金谷、大井川に兵を出し、巡視する(浜松御在城記、享禄以来年代記、甲陽軍艦、武徳編年集成)十二月二十七日、武田家、三浦右馬助らに、諏訪原へ伏兵を出すことを命じる(友野文書)、天正元年癸酉(一五七三)九月二十四日、武田家、酒井実明に、金屋の内などを与える(古文書集)、十一月四日、武田勝頼、天徳寺宝衍への書状に、佐野郡に城塞を築くことを記す(古文書雑集、甲陽軍艦、三川記、当代記、遠州高天神軍記、三河物語、浜松御在城記、武徳編年集成)、十一月十九日、武田勝頼、天野美濃守に、遠江国質侶の内高熊の替地として、同国牛飼郷の内を与える(天野文書)、天正二年申戌(一五七四)九月九日、武田家、信濃国金山衆に、榛原郡の内を与える(友野文書)、天正三年乙亥 (一五七五)七月五日、武田勝頼、山県源四郎に、諏訪原城等の要害を固めるよう命じる(孕石文書)、八月二十四日、これより先、徳川家康、武田勝頼軍の守る諏訪原城を攻め、この日、墜落させる(今川氏真詠草、浜松御在城記、当代記、武徳編年集成、牛窪記、甲陽軍艦、大三川志、譜牒余録、寛永諸家系図伝、藩翰譜、常山奇談、寛政重修諸家譜、遠州高天神軍記、遠江国風土記伝、遠江古迹図会)、九月七日、徳川家康、小山城の武田勝頼軍に対抗するため、諏訪原城に入る(当代記、武徳編年集成)、天正四年丙子(一五七六)三月十七日、徳川家康、今川氏真を駿河に入国させ、牧野城番とする事などを、松平家忠らに伝える(松井文書)、八月、徳川家康、駿河に侵入した後、小夜の中山で武田勝頼と対陣する(武徳編年集成、家忠日記蔵補寛政重修諸家譜)、天正五年丁丑(一五七七)二月九日、武田勝頼、岡辺長教に、遠江国青柳三ケ郷等の領地および陣夫を与えることを約する(土佐国蠧簡集残編)、三月一日、今川氏真、牧野入城以来奉公する海老江弥三郎に暇を出す(海老江文書)閏七月十二日、武田勝頼、孕石元康に、深谷村などを安堵する(土佐国□簡集残編)、十月二十日、武田勝頼、小山城より大井川を越えて退去する(家忠日記、三河物語)、天正六年戌寅(一五七八)三月九日、松平家忠、大井川に陣取り、駿河国田中城を攻める(家忠日記)、三月十日、松平家忠、牧野城に帰陣し、同城を修築する(家忠日記、武徳編年集成、寛政重修諸家譜、藩翰譜)、三月二十四日、武田勝頼、小山城に出陣し、徳川勢が諏訪原城に退いたことを、穴山信君に伝える(孕石文書)、五月十日、牧野城の松平甚太郎の家来都築助大夫、松平家忠を尋ねる(家忠日記)、八月七日、松平家忠、西郷家員にかわって牧野城の番となり、同城の堀普請を行う(家忠記、寛政重修諸家譜)、八月二十二日、徳川勢、駿河国田中城を攻め、徳川家康、牧野城に入る(武徳編年集成)、八月二十五日、牧野城の番替がある(家忠日記)、八月二十八日、松平家忠の守る牧野城外に、武田方の騎馬隊が現われる(家忠日記、武徳編年集成)、九月四日、徳川家康、同信康、牧野城より浜松城に帰る(家忠日記、武徳編年集成)、十月二十八日、牧野城より武田軍侵入の報が入る、また、遠江国で大地震が起こる(家忠日記、武徳編年集成)、十月二十九日、牧野城より武田軍が大井川を越えたとの報が入る(家忠日記、武徳編年集成)、十一月十二日、武田勝頼、高天神城より退却し、大井川を越えて駿河に帰る(家忠日記、武徳編年集成)、十一月十七日、牧野城より、武田軍が駿河国島田に侵入したとの報が入る(武徳編年集成)、十一月三十日、牧野城へ鉄砲衆二十人が入る(家忠日記、武徳編年集成)、十二月六日、牧野城の鉄砲衆、浜松城へ帰る(家忠日記)、天正七年己卯(一五七九)三月七日、松平家忠、西郷家員にかわって牧野城番となる(家忠日記、寛政重修諸家譜、譜蝶余禄、武徳編年集城)、三月二十六日、 戸田泰長、松平家忠、にかわって牧野城番となる(家忠日記、武徳編年集)、九月四日、松平家忠、西郷家員にかわって牧野城番につく(家忠日記)、九月十九日、牧野城の松平家忠、徳川家康の先鋒として、駿河国持船城を陥す(家忠日記、武徳編年集)、九月二十八日、駿河国より井籠に退いた徳川家康、牧野城に帰陣する(家忠日記)、十月一日、徳川家康、牧野城普請のため、浜松城に帰陣する(家忠日記)、十月二十四日、徳川家康、掛川より牧野城に出陣する(家忠日記)、十月二十六日、松平泰長、牧野城版となる(武徳編年集成)、十一月二日、徳川家康、牧野城より掛塚湊に向かう(家忠日記)、十一月五日、牧野城の普請が行われる(家忠日記)、十一月二十八日、武田軍の出陣につき、牧野城へ飛脚を出す、翌日、武田軍が大井川を越える(家忠日記)、天正八年庾辰(一五八〇)四月十八日、松平家忠、西郷家員にかわって牧野城番となる(家忠日記、寛政重修諸家譜)、平十二月六日、牧野城の鉄砲衆、浜松へ帰る、家忠日記、天正七年己卯(一五七九)三月七日、松平家忠、西郷家員にかわって牧野城番となる、家忠日記、寛政重修諸家譜、譜蝶余禄、武徳編年集成、三月二十六日、戸田泰長、松平家忠、にかわって牧野城番となる、家忠日記、武徳編年集成、九月四日、松平家忠、西郷家員にかわって牧野城番につく、家忠日記、九月十九日、牧野城の松平家忠、徳川家康の先鋒として、駿河国持船城を陥す、家忠日記、武徳編年集成、九月二十八日、駿河国より井龍に退いた徳川家康、牧野城に帰陣する、家忠日記、が駿河島田に侵入したとの報が入る、武徳編年集成、十一月三十日、牧野城へ鉄砲衆二十人が入る、家忠日記、武徳編年集成、十二月六日、牧野城の鉄砲衆、浜松城へ帰る、家忠日記、天正七年己卯(一五七九)三月七日、松平家忠、西郷家員にかわって牧野城番となる、家忠日記、寛政重修諸家譜、譜蝶余禄、武徳編年集成、三月二十六日、戸田泰長、松平家忠、に変わって牧野城番となる、家忠日記、武徳編年集成、九月四日、松平家忠、西郷家員にかわって牧野城番につく、家忠日記、九月十九日、牧野城の松平家忠、徳川家康の先鋒として、駿河国持船城を陥す、家忠日記、武徳編年集成、九月二十八日、駿河国より井龍に退いた徳川家康、牧野城に帰陣する、家忠日記、十月一日、徳川家康、牧野城普請のため、浜松城に帰陣する、家忠日記、十月二十四日、徳川家康、掛川より牧野城に出陣する、家忠日記、十月二十六日、松平家忠、牧野城番となる、武徳編年集成、十一月二日、徳川家康、牧野城より掛塚湊に向かう、家忠日記、十一月五日、牧野城の普請が行われる、家忠日記、十一月二十八日、武田軍の出陣につき、牧野城へ飛脚を出す、翌日、武田軍が大井川を越える、家忠日記、天正八年庚辰四月十八日、松平家忠、西郷家員にかわって牧野城番となる、家忠日記、寛政諸家譜、五月二日、徳川家康、駿河国田中、持船攻めに先立ち、 諸軍を牧野城に入れる、家忠日記、武徳編年集成、五月十七日、松平泰長、牧野城加番として入場する、武徳編年集成、七月二十一日、徳川家康、大井川の河原に陣取り、ついで小山、田中を攻める、家忠日記、武徳編年集成、天正九年辛巳(一五八一)三月、徳川家康、諏訪原に城を築き、松平忠吉に守らせる、寛永諸家系図伝、三河物語、六月十一日、松平家忠、西郷家員にかわって牧野城番となる、家忠日記、九月一日、松平家忠、牧野城の松平甚太郎を見舞う、家忠日記、九月二十一日、松平甚太郎、病気のため牧野城より東条に移る、家忠日記、十二月十七日、松平家忠、西郷家員にかわって牧野城番となる、家忠日記、天生十年壬午(一五八二)二月十九日、徳川家康、駿河攻めのため牧野城に至り、諸勢は金谷に陣取る、家忠日記、三月二日、牧野康成、牧野城より駿河国興国時へ移る、家忠日記増補、三月五日、牧野衆が三倉に陣替となる、家忠日記、三月、米倉忠継、徳川家康の命をうけて、甲斐国より遠江国桐山に移るという、寛永諸家系図伝、寛政重修諸家譜、四月十五日、織田信長、甲斐国より安土への帰途、大井川、牧之原、菊川、小夜の中山を通過する、信長公記、七月四日、松平家忠、徳川家康の供で牧野に至る、家忠日記、天正十六年戌子(一五八八)閏五月十四日、徳川家康、志戸呂に在留する瀬戸者らに、分国中の焼物商売を免除する、加藤正一郎家文書、閏五月二十日、徳川家康、金屋から駿府までの宿中に、伝馬を出すことを命じる、加藤正一郎家文書、この年、石上村四天王宮の社殿が建立される、掛川誌稿、天正十七年己丑(一五八九)二月四日、河村次郎衛門尉ら、駿河国智満寺先手観音堂の造営に奉加する(棟札銘)、三月十三日、徳川家、深谷村を検知する(掛川誌稿)、七月七日、徳川家康、遠江国霧山に七か条の条規を定める、御庫本古文書纂、掛川誌稿、十二月、豊臣秀吉、菊川村に禁制を下す(掛川誌稿)、天正十八年庚寅(一五九〇)三月、徳川家康、小田原城攻めに先立ち、小夜の中山で豊臣秀吉を饗応する(寛永諸家系図伝)、三月、「小田原陣ノ時海道筋諸城守衛図」に中山と菊川が見える(毛利家文庫)、



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