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■第11回目は 静岡県立大学附属図書館 児玉 匡史 さん です。「図書館員の棚から3冊」ということで、ずっと積みっぱなしにしていた、いわゆる積ん読本を、この機会に棚から3冊抜き出して読んでみました。正確には、このうち1冊については、電子書籍版で購入してダウンロードしっぱなしにしていたものなので、「積ん読本」ならぬ「ダウンロー読本(それとも「ダウンロードし読本」?)」と言うべきかもしれません。 1.『ぼくもいくさに征くのだけれど:竹内浩三の詩と死』 (稲泉連/著 中央公論新社 2004年) 1冊目はノンフィクションで、終戦の年に出征先のフィリピンで戦死した23歳の青年、竹内浩三の評伝です。生前に書き残した詩などが戦後に相次いで出版され、詩人として知られるようになった浩三の生涯と、彼の作品を世に伝えることに携わった人たちの物語です。 浩三の詩は、その生涯と同様、戦争と切っても切り離すことができません。たとえば本書のタイトルでもある「ぼくもいくさに征くのだけれど」は、出征前に書いた詩から取ったもので、「だけれど」という言葉から分かるように、勇ましさのない、哀しさと諦めの詰まった静かな詩です。しかし、浩三はその一方で、自らの異国での戦死を予見していたとも思わせる「日本が見えない」という魂の叫びのような詩も残しており、その振れ幅は彼の苦悩の大きさを感じさせます。出征当日、見送りの人たちを待たせながらも、部屋でじっとうずくまってチャイコフスキー最後の交響曲「悲愴」を聞いていたというエピソードも、とても印象的です。 浩三の詩と死を通して読者に戦争というものを改めて考えさせる本ですが、著者の文章に押しつけがましさはありません。ちなみに、著者の稲泉連氏は、2005年に本書で大宅壮一ノンフィクション賞を史上最年少受賞(26歳)しました。文庫版も出版されているほか、電子書籍でも購入できます。 2.「ガルガンチュア」 (フランソワ・ラブレー/著 宮下志朗/訳 筑摩書房 2005年) 2冊目は文学で、15〜16世紀のフランスの作家であり医師であった、フランソワ・ラブレーの長編物語「ガルガンチュアとパンタグリュエル」の第一の書(ただし、出版は第二の書『パンタグリュエル』の方が先)の新訳です。 本書は、巨人の王ガルガンチュア(パンタグリュエルはその息子)の奇想天外な物語です。母親ガルガメルの左耳から生まれ落ちたガルガンチュアは、「のみたいよー」という産声をあげてワインを一気飲みし、その後も機嫌が悪い時はワインでなだめるとにこにこ顔になるという、常識にしばられた私たちには理解の及ばない人物です。その後彼は、5歳の時から50年以上かけてソフィストの先生に旧来の学問を学んだ結果、どうしようもないばかになってしまったため、薬草でそれらをすっかり忘れさせられてもう一度教育し直されるのですが、そこに神学者に対する風刺が込められているとかはさておき、このような、思わずクスっとしてしまうエピソードが満載の本です。 訳者による注釈も豊富で、本書の読解を助けてくれます。私はその中でも、「ピクロコル戦争」を描いた箇所にある、ラブレーに大きな影響を与えたオランダの人文学者エラスムスの著作から引いた「正義の戦争」に関する文章が印象に残りました。ちなみに、訳者の宮下志朗氏は、2013年に本書を含む「ガルガンチュアとパンタグリュエル」全5巻の翻訳で読売文学賞を受賞しました。単行本ではなく、ちくま文庫で出ています。 3.『「フクシマ」論:原子力ムラはなぜ生まれたのか』 (開沼博/著 青土社 2011年) 3冊目は学術書で、福島県の原発立地地域である「原子力ムラ」の成り立ちについて、社会学的に調査研究して論じた修士論文です。東日本大震災に伴う原発事故に遭う直前の原子力ムラの様子を記した文献として、出版時に話題になった本でもあります。 原子力ムラは、原発によってもたらされる経済的・文化的な要素だけでなく、愛郷心も背景にして自ら原子力を求めるようになったこと。そこでは、反対派の住民も許容する形でムラの秩序が強固に安定していたこと。中央においても同様に、推進派だけでなく反対派をも取り込んで原発推進体制が安定的に維持されてきたこと。そしてあの原発事故を経ても、その根底にあるものは変わっていないことなど、著者の考察・指摘が刺激的な1冊です。 静岡県には浜岡原発があり、原子力ムラがあります。原発については、親原発、脱原発、反原発、無関心など、さまざまな立場の人がいるかと思いますが、自らの立場を決めてしまう前に、原子力ムラの現実と向き合う第一歩として、本書を読んでみてはいかがでしょうか。ちなみに、著者の開沼博氏は2011年に本書で毎日出版文化賞を受賞しました。 次回は 島田市立島田図書館 磯部 祥 さん です。 |