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書誌情報サマリ

書名

大仁町史 資料編1    考古・古代・中世・美術 

著者名 伊豆の国市教育委員会/編集
著者名ヨミ イズノクニシ キョウイク イインカイ
出版者 伊豆の国市教育委員会
出版年月 2010.3


書誌詳細

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タイトル番号 1002000111977
書誌種別 地域資料
書名 大仁町史 資料編1    考古・古代・中世・美術 
著者名 伊豆の国市教育委員会/編集
書名ヨミ オオヒト チョウシ   コウコ コダイ チュウセイ ビジュツ
著者名ヨミ イズノクニシ キョウイク イインカイ
各巻書名 考古・古代・中世・美術
出版者 伊豆の国市教育委員会
出版地 伊豆の国
出版年月 2010.3
ページ数 1152,7p
大きさ 22cm
言語区分 日本語
分類 S212
件名 大仁町(静岡県)
目次 口絵、発刊にあたって、(伊豆の国市長、望月良和)、例言、考古・古代中世編年史料要文細目次、考古、旧石器・縄文時代、大仁町の旧石器・縄文時代遺跡概観、一、旧石器時代の遺跡、二、縄文時代の遺跡、旧石器・縄文時代の遺跡分布図、大仁町遺跡地名表、(旧石器・縄文時代)、弥生・古墳・歴史時代、大仁町の弥生・古墳・歴史時代遺跡概観、一、弥生時代の遺跡、二、古墳時代の遺跡、三、歴史時代の遺跡、弥生・古墳・歴史時代の遺跡分布図、大仁町遺跡地名表、(弥生・古墳・歴史時代)、古代、凡例、神話・伝承、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、古代別編、第一、木簡・正倉院調庸布銘文、付、伊豆国田方郡の郷里と氏族構成一覧、第二、風土記、(逸文)、第三、万葉集、第四、大同類聚方、第五、系図、第六、古代里郷比定地一覧式内社考証集覧、中世、凡例、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国時代、中世別編、第一、社寺縁起、第二、棟札、第三、系図、第四、石造物、美術、凡例、概観、各説、解説、古代、中世、編集後記、資料提供者・協力者一覧、町史関係者一覧、出典一覧、(古代・中世)、口絵、考古・古代中世編年史料要文細目次、考古、旧石器時代、1、浮橋・八丁平遺跡、2、浮橋・笹子遺跡、3、三福・仲道A遺跡、参考、1、沼津市・休場遺跡、縄文時代、1、浮橋・八丁平遺跡、2、長者原・大平A遺跡、3、長者原・大平B遺跡、4、長者原・大平C遺跡、5、田原野・阿原遺跡、6、田原野・上ノ田遺跡、7、浮橋・上西ノ窪A遺跡、8、浮橋・茅野B遺跡、9、田中山・菖蒲ケ池A遺跡、10、田京・公蔵免遺跡、11、田京・段遺跡、12、三福・仲道A遺跡、13、三福・向原遺跡、参考、2、伊豆市・上白岩遺跡、弥生時代、1、田京・段遺跡、参考、3、韮山・山木遺跡、古墳時代、1、宗光寺・富士見夫婦塚1号墳、2、宗光寺・横山段3号墳、3、宗光寺・宗光寺横穴群、4、守木・守木横穴群、5、守木・平石4号墳、6、田京・山崎遺跡、7、田京・山畑遺跡、8、田京・公蔵免遺跡、9、田京・段遺跡、10、神島・笠石山洞窟遺跡、参考4、小坂・駒形古墳、参考、5、多田・多田大塚古墳群、歴史時代、1、長者原・大平C遺跡、2、宗光寺・宗光寺廃寺、3、田京・段遺跡、4、吉田・高勝寺遺跡、5、神島・金山城跡、古代、神話・伝承、(年月日未詳)、伊豆国、大船を献ずる、という、日本紀略、濫觴抄、日本書紀、応神天皇五年十月、伊豆国に命じて船を造らせる、という、その船の名を枯野という、日本書紀、応神天皇三十一年八月、伊豆国より貢る枯野を廃船とし、その功名を後世に伝えるため船材を薪として塩を焼いて諸国に配り、代わりに船を造らせると、諸国から一斉に五百隻が買上された、という、また、枯野船の燃え杙で琴を作ると、その音はさやかで、遠くまで聞えた、という、日本書紀、古事記、(年月日未詳)、 珠流河国造・盧原因造・伊豆国造らの系譜と国造任命の由来が、『先代旧事本紀』に見える、 先代旧事本紀、(年月日未詳)、賀茂朝臣の系譜が、『新撰姓氏録』にみえる、新撰姓氏録、飛鳥時代、推古天皇二十八年庚辰、(六二〇)、八月、掖玖、(鹿児島県屋久島)、の人二人、伊豆島に流れ着く、日本書紀、天智天皇九年庚午、(六七〇)、この年、伊豆国造伊豆直の祖御立、庚午年籍で日下部直姓となる、伊豆宿禰系図、天武天皇四年乙亥、(六七五)、四月十八日、三位麻続王を因幡に流し、その一子を伊豆島に流す、日本書紀、天武天皇九年庚辰、(六八〇)、七月、駿河国より伊豆国を別ける、扶桑略記、帝王編年記、濫觴抄、奈良時代、大宝二年壬寅、(七〇二)、九月十七日、飢鑑が、伊豆国など五か国でおこり、使者を派遣して救済する、続日本紀、慶雲元年甲辰、(七〇四)、大宝四年五月十日改元、夏、疫病が、伊豆国と伊賀国でおこり、医薬を与えて治療する、続日本紀、和銅二年己酉、(七〇九)、五月二十日、長雨が、伊豆国など五か国であり、苗に被害がでる、続日本紀、和銅五年壬子、(七一二)、七月十五日、伊豆国など二一か国に、初めて綾や錦を織らせる、続日本紀、霊亀二年丙辰、(七一六)、十一月三十日、長屋王家に来ていた伊豆国造とその従者が、米を支給される、平城京跡木簡、養老三年己未、(七一九)、七月十三日、遠江国守を按察使とし、遠江・駿河・伊豆・甲斐国を管轄させる、続日本紀、養老四年庚申、(七二〇)、三月二十三日、伊豆国や遠江・常陸・出雲国に、駅鈴を支給する、続日本紀、五月二十三日、伊豆国や駿河・伯耆国に、三剋の駅鈴を支給する、続日本紀、養老六年壬戌、(七二二)、この年、田方郡有参郷桜田里の木簡が、出土している、平城京跡木簡、神亀元年甲子、(七二四)、養老八年二月四日改元、三月一日、流罪の遠近が定められ、伊豆国などは遠流となる、続日本紀、十二月二十九日、伊豆国史生の林連毛人が、不動倉の匙を京進する、伊豆国正税帳、天平元年己巳、(七二九)、神亀六年八月五日改元、正月二十一日、伊豆国史生の広瀬臣光が、不動倉の匙を京進する、伊豆国正税帳、天平二年庚午、(七三〇)、十月、田方郡久寝郷坂本里にいた日下部床足が、調として荒堅、(魚)を京進する、平城京跡木簡、天平五年癸酉、(七三三)、九月、某郡某郷にいた某部呰万呂が、調として荒堅魚を京進する、平城京跡木簡、この年、伊豆国の安倍朝臣氏主が、三嶋神の神事を執り行う、伊豆国三嶋神主家系図、天平七年乙亥、(七三五)、九月、田方郡の久寝郷から、荒堅魚が京進される、平城京跡木簡、十月、田方郡の棄妾郷・有雑郷・久寝郷から、荒堅魚が京進される、平城京跡木簡、十月、田方郡の有雑郷と久寝郷から、煎が京進される、平城京跡木簡、十月、田方郡棄妾郷瀬前里の木簡が、出土している、平城京跡木簡、この年、神告により、三嶋神を伊豆国府へ遵す、伊豆国三嶋神主家系図、 天平九年丁丑、(七三七)、三月十六日、太政官が、伊豆国に大般若経の書写を命じる、伊豆国正税帳、七月五日、 飢饉と疫病が、伊豆国など三か国でおこり救済する、続日本紀、十一月四日、田方郡の木簡が、出土している、平城京跡木簡、この年、田方郡の木簡が、出土している、平城京跡木簡、天平十一年己卯、(七三九)、正月十四日、伊豆国で、金光明経や金光明最勝王経を転読する、伊豆国正税帳、三月二十四日、太政官が、伊豆国に金光明最勝王経の講説を命じる、伊豆国正税帳、六月七日、兵部省が、伊豆国に兵家稲の出挙利稲の免除を命じる、伊豆国正税帳、九月十四日、兵部省が、伊豆国に兵家稲の官稲への混合を命ずる、伊豆国正税帳、天平十二年庚辰、(七四〇)、この年、伊豆国が、天平十一年度の正税帳を作成する、伊豆国正税帳、天平十四年壬午、(七四二)、四月十日、外従七位下の日下部益人が、伊豆国造伊豆直を与えられる、続日本紀、天平十九年丁亥、(七四七)、二月十一日、大安寺が、伊豆国などに設置されていた論定出挙稲などを書き上げる、大安寺伽藍縁起并流記資財帳、天平勝宝五年癸巳、(七五三)、六月四日、伊豆内侍が、如意輪陀羅尼経の出納に関わる、経疏出納帳、六月十五日、東大寺が、伊豆など三六か国の仕丁を列記した文書を再利用する、丹裏古文書、天平勝宝七歳乙未、(七五五)、二月九日、大伴宿禰家持が、伊豆手舟に関する歌を詠む、万葉集、天平宝字二年戊戌、(七五八)、十月二日、伊豆三嶋神の封戸が、伊豆国に置かれ、十二月に増置される、新抄格勅符抄、天平宝字五年辛丑、(七六一)、五月九日伊豆国史生が、奉写一切経所で勤務していた状況を報告される、奉写一切経所解牒案等帳、十一月十七日、藤原恵美朝臣朝狩が節度使となり、伊豆など一二か国を管掌する、続日本紀、天平宝字八年甲辰、(七六四)、正月二十一日、大伴宿禰伯麻呂が、伊豆国の守となる、続日本紀、宝亀二年辛亥、(七七一)、閏三月二十二日、外従五位下の伊豆国造伊豆直乎美奈が、従五位下となる。続日本紀、宝亀十一年庚申、(七八〇)、五月十二日、飢饉と疫病が、伊豆国でおこり救済する、続日本紀、十二月十日、伊豆国の封戸が、二四か寺の封戸を列記した中に見える、新抄格勅符抄、延暦四年乙丑、(七八五)、十月二十一日、外従五位下の伊豆国造伊豆直益人が、八三歳で没する、伊豆宿禰系図、延暦十一年壬申、(七九二)、六月十四日、伊豆国など五一か国の兵士を廃止し、健児を設置する、類聚三代格、延暦十二年癸酉、(七九三)、二月十五日、伊豆国など一〇か国の守と掾の公廨を決定する、類聚三代格、平安時代、延暦二十一年壬午、(八〇二)、九月三日、田地の被害が、伊豆など三一か国であり、田祖を免除し調を徴収する、類聚国史、延暦二十四年乙酉、(八〇五)、十一月七日、伊豆掾であった山田宿禰豊浜が、上京中に毒を盛られて没する、日本後紀、 大同元年丙戌、(八〇六)、延暦二十五年五月十八日改元、この年、伊豆三嶋神と鏡作神の封戸を伊豆国に設置することを定める、新抄格勅符抄、 大同二年丁亥、(八〇七)、正月、伊豆直古麿が、伊豆国造に任命される、伊豆宿禰系図、弘仁十年己亥、(八一九)、この年、空海が、伊豆国の桂谷山寺で大般若経を書写したと伝えられる、今昔物語集、天長七年庚戌、(八三〇)、八月十一日、卜部遠継が、伊豆嶋直真長などの協力を得て、亀トの経緯をまとめる、新撰亀相記、法律家が、神祇官の構成員と職掌について、解釈を行う、令集解、十一月十五日、伊豆など一一か国の博士や医師に、大学寮や典薬寮の諸生を任用する、類聚三代格、天長九年壬子、(八三二)、五月二十二日、伊豆国の申請により、三嶋神と伊古奈比昨命神を名神とする、釈日本紀、大山祇神の由来などについて記す、釈日本紀、伊豆国などにある一宮の社名・祭神・所在地を列記する、大日本国一宮記、承和元年甲寅、(八三四)、天長十一年正月三日改元、正月八日、正六位上のト部嶋継が、外従五位下となる、類聚国史、承和三年丙辰、(八三六)、秋、賢安が、走湯山で修行し、千手観音像を安置したと伝えられる、伊呂波宇類抄、この年、伊豆国の国分尼寺が焼失し、定額寺で代用する、日本三代実録、承和五年戌午、(八三八)、七月より九月、伊豆など一六か国から、灰のようなものが降ったと報告される、続日本後紀、承和七年庚申、(八四〇)、十二月一日、駿河国駿河郡の永蔵駅家を、伊豆国田方郡へ還す、続日本後紀、承和八年辛酉、(八四一)、七月五日、伊豆国で地震があり、使者を派遣して救済する、続日本後紀、嘉祥元年戊辰、(八四八)、承和十五年六月十三日改元、三月十三日、飢饉が、伊豆国と淡路国でおこり、使者を派遣して救済する、続日本後紀、斉衡元年甲戌、(八五四)、仁寿四年十一月三十日改元、十月二十三日、前伊豆守の百済宿禰康保が、百姓などを殺害し、流罪に処せられる、日本文徳天皇実録、斉衡二年乙亥、(八五五)、九月二十八日、伊豆国の大興寺が、定額寺となり、海印寺の別院となる、日本文徳天皇実録、天安二年戊寅、(八五八)、四月十日、伊豆国出身のト部宿禰雄貞が、四八歳で没する、日本文徳天皇実録、貞観元年己卯、(八五九)、天安三年四月十五日改元、正月二十七日、三嶋神が従四位上、楊原神社が従五位上となる、日本三代実録、貞観四年壬午、(八六二)、七月、伊豆直真宗が、伊豆国田方郡の主政となる、伊豆宿禰系図、貞観八年丙戌、(八六六)、九月二十二日、大納言の伴善男が、伊豆国へ配流される、日本三代実録、伴善男などの系図を記す、伴氏系図、伴善魚などの名を仏像に記す、仏像背銘、貞観十二年庚寅、(八七〇)、五月二十九日、楊原神が、正五位下となる、日本三代実録、 元慶五年辛丑、(八八一)、十二月五日、伊豆国出身の卜部宿禰平麻呂が、七五歳で没する、日本三代実録、吉田家譜、卜部宿禰平麻呂などの系図を記す、吉田家譜、卜部氏系図、元慶八年甲辰、(八八四)、四月二十一日、伊豆国司が、焼亡した国分尼寺の再建を申請する、日本三代実録、 仁和二年丙午、(八八六)、十一月二十五日、楊原神が、正五位上となる、日本三代実録、仁和三年丁未、(八八七)、六月二日、伊豆など一八か国の絹が、麁悪のため、見本に基づいて織らせる、日本三代実録、寛平八年丙辰、(八九六)、九月二十二日、東光寺僧の善祐が、皇太后と密通し、伊豆国講師に左遷される、扶桑略記、延喜三年癸亥、(九〇三)、六月二十日、講師しか任命させていなかった伊豆など一一か国に、読師を設置する、類聚三代格、延喜十四年甲戌、(九一四)、八月八日、国造田などの地子稲を正税に混合し、地子交易物の価数などを定める、政事要略、八月十五日、太政官厨家の申請により、例進地子雑物などを定める、政事要略、延長五年丁亥、(九二七)、十二月二十六日、伊豆国などに設置された名神社を列記する、延喜式、宮主の任用や食料を規定する、延喜式、伊豆国と紀伊国が、神税を交易し、京進する物品を規定する、延喜式、伊豆など一八か国の内、斎宮寮に移送される調庸物を規定する、延喜式、伊豆国などに設置された式内社を列記する、延喜式、伊豆国の祭神の神階を列記する、伊豆国神階帳、伊豆国などに設置された伊勢神宮の御厨を列記する、神鳳抄、伊豆国などの主典に、太政官の史生などを任用することを規定する、延喜式、伊豆国などが、京進する年料供進を規定する、延喜式、伊豆国の山興寺など、国分寺へ転用する寺院を規定する、延喜式、伊豆国などの等級と管轄している郡名を列記する、延喜式、伊豆など二五か国が、京進する年料別納租殻を規定する、延喜式、伊豆など四三か国が、京進する年料別貢雑物を規定する、延喜式、伊豆など四七か国が、京進する蘇を規定する、延喜式、伊豆国などが、京進する交易雑物を規定する、延喜式、伊豆など四八か国が、京進する調糸を規定する、延喜式、伊豆など一〇か国が、京進する?を規定する、延喜式、伊豆などが、京進する調・庸・中男作物を規定する、延喜式、伊豆国などが、提出する調帳の期限を定める、政事要略、伊豆国などが行う正税・公廨・雑稲の出挙の量を規定する、延喜式、伊豆国などへ派遣した使者の復命期日を規定する、延喜式、伊豆国などが、禄物を正税で支給する時の換算基準を規定する、延喜式、伊豆国などが、京進する時の運送費を規定する、延喜式、伊豆国などの健児を規定する、延喜式、伊豆国など諸国が、京進する武器や武具を規定する、延喜式、伊豆など一〇か国の流刑地を規定する、延喜式、伊豆など三〇か国が、京進する例貢御贄を規定する、延喜式、伊豆など三一か国が、京進する貢進菓子を規定する、延喜式、 伊豆国などが、京進する年料雑薬を想定する、延喜式、伊豆国などが、京進する堅魚煎汁を規定する、延喜式、延長六年戊子、(九二八)、二月十五日、伊豆直峰滝が、田方郡の大領となる、伊豆宿禰系図、承平年中、(九三一~九三八)、承平年中、『和名類聚抄』を撰述し、伊豆国田方郡の郷名などを列記する、 和名類聚抄、伊豆国田方郡などの郷名を列記する、和名類聚抄、伊豆国などの管轄している郡名や上京帰郷の回数などを列記する、和名類聚抄、伊豆国などの田地の数を列記する、掌中歴、伊豆国などの管轄している郡名や上京帰郷の日数などを列記する、色葉字類抄、伊呂波字類抄、伊豆国などの等級・田地の数・管轄している郡名などを列記する、拾芥抄、伊豆国などの等級を列記する、二中歴、伊豆国などの行程や上京帰郷の日数などを列記する、二中歴、伊豆国などの田地の数や特産などを列記する、海東諸国紀、天慶元年戉戌、(九三八)、承平八年五月二十二日改元、十一月三日、伊豆国や駿河・甲斐・相模国へ、平将武の追捕を命じる、本朝世紀、天慶二年己亥、(九三九)、十二月十五日、平将門が、徐目を行い、平将武を伊豆守とする、扶桑略記、平将門や平将武などの系図を記す、尊卑分脈、天慶三年庚子、(九四〇)、正月二十五日、伊豆国と遠江国が、駿河国での不穏な状況を報告する、日本紀略、天暦五年辛亥、(九五一)、十月十九日、伊豆国の申請により、外記局で保管していた三剋の駅鈴を支給する、類聚符宣抄、応和三年発亥、(九六三)、これより以前、大安寺の三綱が、死亡した伊豆国読師の後任を申請する、政事要略、天禄二年辛未、(九七一)、七月十九日、伊豆など二一か国に、調布などを京進させる、別聚符宣抄、永延二年戊子、(九八八)、閏五月十九日、外従七位上の伊豆直厚正が、田方郡の少領となる、類聚符宣抄、長保二年庚子、(一〇〇〇)、十二月二十九日、造東寺年終帳に、伊豆国などの封戸や封物が列記される、造東寺年終帳、寛仁二年戊午、(一〇一八)、正月二十二日、外従七位上田方郡少領の伊豆直厚正が、六八歳で没する、伊豆宿禰系図、寛治元年丁卯、(一〇八七)、応徳四年四月七日改元、十月四日、伊豆国から献上の白烏について、その対応の先例を調べる、本朝世紀、康和五年癸未、(一一〇三)、十一月、伊豆国三嶋社の宮司職に伊豆宿禰国盛を補任する、伊豆国司庁宣、天仁元年戊子、(一一〇八)、嘉承三年八月三日改元、正月二十五日、伊豆国司庁宣により、伊豆宿禰国盛の三嶋社社務の執行を認める、伊豆国司庁宣、仁平元年辛未、(一一五一)、久安七年一月二十六日改元、八月十一日、饗宴に供される黄衾などの一部を伊豆等の諸国が負担する、台記別記、平冶元年己卯、(一一五九)、保元四年四月二十日改元、九月、伊豆国の木綿・堅魚・煎が、本宮の女房装束料として、某寮に納入される、某寮納物注文、 永歴元年庚辰、(一一六〇)、平治二年一月十日改元、三月十一日、源頼朝が伊豆に配流される、清?眼抄、承安三年癸巳、(一一七三)、五月十六日、高尾上人文覚、院中での悪言により伊豆国に配流される、玉葉、百錬抄、承安四年甲午、(一一七四)、十月五日、僧尊慶、伊豆国田方郡天野郷の田地を売渡す、僧尊慶田地売渡状、安元二年丙申、(一一七六)、十月、工藤祐経、 伊豆の奥の狩場で河津祐泰・八幡三郎を射殺し、曾我兄弟の仇討ちにあう、吾妻鏡、治承三年己亥、(一一七九)、正月十九日、平兼隆、官を解かれて伊豆へ流罪、山槐記、治承四年庚子、(一一八〇)、四月二十七日、平家追討を命じた以仁王の令旨が、伊豆国北条館にいる源頼朝のもとに届く、吾妻鏡、中世、鎌倉時代、治承四年庚子、(一一八〇)、八月十七日、源頼朝、伊豆国に挙兵する、吾妻鏡、八月二十四日、伊豆国武士ら、源頼朝に従って、相模国石橋山で大庭影親と戦い、敗れて箱根山に隠れる、吾妻鏡、十月十九日、天野遠景、賀茂郡鯉名泊で伊東祐親を捕え、駿河国黄瀬川に連行する、吾妻鏡、十月二十日、源頼朝、駿河国加島に到着し、富土川をはさんで平氏軍と対陣する、平氏軍、水鳥の羽音に驚いて逃走する、吾妻鏡、十月二十三日、源頼朝、天野遠景・狩野親光らの勲功を賞する、吾妻鏡、寿永元年壬寅、(一一八二)、養和二年五月二十七日改元、二月十四日、伊豆国を本拠とする伊東祐親、自殺する、吾妻鏡、元暦元年甲辰、(一一八四)、寿永三年四月十六日改元、四月二十一日、源頼朝、伊豆国堀親家以下の軍勢を派遣して、志水義高を討たせる、吾妻鏡、文治元年乙巳、(一一八五)、元暦二年八月十四日改元、三月十一日、源頼朝、工藤祐経・加藤景廉・天野遠景・新田忠常など伊豆・駿河両国の御家人の勲功を賞する、吾妻鏡、四月二十日、源頼朝、伊豆国糠田郷を三島社に寄進し、河原谷・御園を六月臨時祭料所、糠田・長崎を八月放生会料所とする、吾妻鏡、文治二年丙午、(一一八六)、四月二十日、源頼朝、副島大膳大夫に伊豆国佐野の内を交付する、源頼朝御教書写、五月三日、仏師運慶、伊豆国願成就院の不動明王像を造立する、不動明王立像胎内札銘、七月十日、源頼朝、伊豆国天野遠景の奉公を賞する、源頼朝書状、文治四年戊申、(一一八八)、六月四日、伊豆国狩野荘等の地頭沙汰について、勅答が報じられ、蓮華王院領伊豆国狩野荘が帥中納言吉田経房に付けられる、吾妻鏡、文治五年己酉、(一一八九)、六月六日、奥州征伐祈願のため伊豆国北条内願成就院の立柱上棟供養が行われる、吾妻鏡、十二月二十五日、伊豆・相模両国を源頼朝の永代知行国とする、吾妻鏡、建久二年辛亥、(一一九一)、八月一日、伊豆国工藤景光・八田知家ら、源頼朝新亭献杯の儀に列席する、吾妻鏡、 建久四年発丑、(一一九三)、五月二十八日、駿河国富士野の神野の狩宿において、曾我祐成・時致兄弟、父河津祐泰の仇として、伊豆国工藤祐経を殺害する、祐成、伊豆国新田忠常に討たれる、吾妻鏡、建久六年乙卯、(一一九五)、正月十一日、伊豆国修禅寺所蔵の大般若波羅蜜多経が書写される、大般若波羅蜜多経奥書、正治二年庚申、(一二〇〇)、正月十三日、源頼朝の一周忌にあたり、北条時政、伊豆国願成就院に仏閣を造営し、阿弥陀三尊像等を安置する、また伊豆・駿河国等の寺院において、追善供養法会が営まれる、 吾妻鏡、閏二月八日、源頼家、伊豆国藍沢原で、狩猟を行う、吾妻鏡、建仁元年辛酉、(一二〇一)、正治三年二月十三日改元、十月六日、北条泰時、伊豆国北条に到着し、損亡に苦しむ農民の負債を破棄し、酒米を支給する、吾妻鏡、建仁二年壬戌、(一二〇二)、七月十七日、源頼家、狩猟のため、伊豆国に赴く、吾妻鏡、建仁三年癸亥、(一二〇三)、六月一日、源頼家、伊豆国の狩場に到着し、和田胤長に伊東崎の洞窟を探索させる、吾妻鏡、六月三日、源頼家、駿河国富士の狩場に赴き、伊豆国新田忠常に山麓の洞窟を探索させる、吾妻鏡、六月四日、伊豆国新田忠常、浅間大菩薩の在所と言われる洞窟より帰る、吾妻鏡、八月十日、源頼家、般若波羅蜜多心経を伊豆国三島社に奉納する、般若波羅蜜多心経奥書、九月二日、比企能員、北条時政の屋敷内で、伊豆国天野遠景・新田忠常らに謀殺される、吾妻鏡、九月五日、源頼家、伊豆国堀親家を使者として、新田忠常・和田義盛に北条時政の謀殺を命ずる、義盛、親家を捕らえ、伊豆国工藤行光に殺害させる、吾妻鏡、九月二十九日、源頼家、伊豆国修禅寺に幽閉される、吾妻鏡、十月十四日、二所・三島社などに神馬を奉納する、吾妻鏡、十一月十九日、源実朝、将軍代始にあたり、伊豆国および関東分国百姓の年貢を減免する、吾妻鏡、元久元年甲子、(一二〇四)、建仁四年二月二十日改元、三月、北条義時、伊豆国江間郷で大蛇を退治する、珍場神社棟札写、七月十九日、源頼家死去の報が、伊豆国より鎌倉に伝えられる、吾妻鏡、元久二年乙丑、(一二〇五)、六月二十二日、北条時政・義時、畠山重忠・重保父子を討つ、義時の軍勢に伊豆国狩野宗茂・宇佐美祐茂・八田知重が加わる、吾妻鏡、閏七月二十日、北条義時・政子、父時政を伊豆国北条に引退させる、吾妻鏡、承元元年丁卯、(一二〇七)、建永二年十月二十五日改元、六月二日、伊豆国天野遠景、北条義時に款状を進め、山木合戦以来の恩賞を望む、吾妻鏡、十一月十九日、北条御塔の供養が行われる、閑谷集、承元二年戊辰、(一二〇八)、閏四月二日、鶴岡八幡宮神宮寺の造営の用材を、伊豆国狩野山の奥から沼津の海に運び出す、吾妻鏡、承元四年庚午、(一二一〇)、八月二十八日、大仏師実慶、伊豆国修禅寺の大日如来坐像を造立する、大日如来坐像胎内銘、 建保元年癸酉、(一二一三)、建歴三年十二月六日改元、十二月十八日、北条義時、伊豆国熱海郷の地頭職を同国走湯権現に寄進する、吾妻鏡、建保三年乙亥、(一二一五)、正月六日、北条時政、伊豆国で死去する、鎌倉大日記、承久二年庚辰、(一二二〇)、十一月五日、皇太子着袴に際し、白布七〇段のうち伊豆国より一〇段を出す、玉蘂、承久三年辛巳、(一二二一)、五月十九日、北条政子・義時ら、軍兵上洛を評定し、ただちに伊豆・遠江・駿河など関東諸国の軍勢を催促する、吾妻鏡、五月二十二日、南条時員ら、京都に進発する北条泰時に従う、吾妻鏡、五月二十五日、 五月二十二日出立の五陣に天野政景・狩野宗茂・八田知重ら、伊豆国には伊東祐時・宇佐美五郎兵衛・同与一らが参戦する、承久記、六月五日、伊豆国狩野宗茂、幕府軍評定により、尾張国一宮より美濃国板橋への進出を命じられる、吾妻鏡、貞応元年壬午、(一二二二)、承久四年四月十三日改元、十二月二十七日、伊豆国天野遠景が死去すると伝えられ、遠景の領分として豆州天野庄、狩野庄牧郷が記載される、萩藩閥閲録、尊卑分脈、伊東大系図、天野遠景などの位牌がつくられる、天野遠景位牌写、安貞二年戊子、(一二二八)、八月、幸賢、伊豆国吉奈にある善名寺に仏餉鉢を奉納する、仏餉鉢銘、寛喜三年辛卯、(一二三一)、三月十九日、北条泰時、伊豆・駿河両国の出挙米を施して窮民を救う、吾妻鏡、仁治元年庚子、(一二四〇)、延応二年七月十六日改元、十二月十六日、二所の参詣精進屋が新造される、また、幕府、二所・三島社の毎日神楽を毎月に改め、功銭を定める、吾妻鏡、仁治二年辛丑、(一二四一)、正月十七日、二所・三島社で神楽が行われる、吾妻鏡、寛元元年癸卯、(一二四三)、仁治四年二月二十六日改元、二月二十三日、海老名忠行、藤原頼経の命により、伊豆国走湯権現に桑糸・呉綿を奉納する、吾妻鏡、寛元四年丙午、(一二四六)、六月十三日、名越光時が配流され、配所伊豆国江聞の宅へ赴く、吾妻鏡、康元元年丙辰、(一二五六)、建長八年十月五日改元、七月三日、幕府、天野景経に遠江国山香荘犬居郷地頭職等を安堵する、将軍宗尊親王家政所下文、弘長元年辛酉、(一二六一)、文応二年二月二十日改元、五月十二日、日蓮、立正安国論により、伊豆国伊東に流される、日蓮書状写、六月六日、北条家奉行人、伊豆国三島社経所国分寺供養僧の訴えをうけ、安居料の弁済を同国北条公文所に命じる、得宗家公文所奉書、六月二十七日、日蓮、伊豆国伊東から川奈の船守弥三郎に書状を送る、日蓮書状写、六月、これより先、三浦泰村の弟良賢、伊豆山に逃れ、この月、謀反を企てる、弘長記、弘長二年壬戌、(一二六二)、二月二十五日、西大寺叡尊、伊豆国府に着き、三島社に参詣する、関東往還記、 弘長三年癸亥、(一二六三)、正月二十三日、二所参詣の随行に、北条時隆・安達泰盛・安達時盛・天野景村・天野景経・城六郎兵衛、(安達顕盛)、など三三人が故障を申し立てる、吾妻鏡、六月八日、尼妙法、伊豆国仁田の所領を、子息新田重綱に譲る、妙法譲状、八月二十七日、大風のため、鎮西からの年貢輸送船六一艘が伊豆近海で漂流する、吾妻鏡、十一月八日、北条時頼の病気平癒祈願参籠のため、尊海、伊豆国三島社に出発する、吾妻鏡、文永元年甲子、(一二六四)、弘長四年二月二十八日改元、九月四日、道意、伊豆国仁田の所領を新田五郎次郎に譲る、道意譲状、文永五年戊辰、(一二六八)、二月二日、伊豆国三島社、焼ける、鎌倉大日記生田本裏書、文永六年己巳、(一二六九)、三月、清賢、伊豆国澄楽寺の磬を造る、磬銘写、 文永九年壬申、(一二七二)、五月十四日、伊豆国肥田引仏、高野山の町石卒塔婆を建てる、高野山町石卒塔婆銘、十一月二十日、幕府、駿河・伊豆等五か国の田文の調進を守護北条時宗に命ずる、関東御教書案、建治元年乙亥、(一二七五)、文永十二年四月二十五日改元、五月、京都六条八幡宮の造営料を負担した御家人の中に、伊豆国七名が合まれている、六条八幡宮造営住文、八月十日、肥後国竹崎季長、戦功訴願のため鎌倉へ下る途中、伊豆国三島社に参詣する、蒙古襲来絵詞、八月、飛鳥井雅有、鎌倉下向の途中、伊豆などを過ぎ、和歌を詠む、みやこぢのわかれ、建冶三年丁丑、(一二七七)、十月二十二日、阿仏尼、訴訟のため鎌倉に下り、二十七日三島に入る、十六夜日記、弘安二年己卯、(一二七九)、二月、日蓮、伊豆国日目に本尊を授与する、日蓮本尊、この年、阿仏尼、伊豆国走湯権現・ 三島社に和歌を奉納する、夫木和歌抄、弘安三年庚辰、(一二八〇)、五月二十九日、日蓮、伊豆国新田信綱夫妻に書状を送る、日蓮書状、十一月、飛鳥井雅有、鎌倉下向の途中、駿河・伊豆両国の所々を通り、和歌を詠む、はるのみやまぢ、弘安四年辛巳、(一二八一)、閏七月二十七日、北条時宗、伊豆国三嶋社に寄進された同国御園について、その地頭職を停止する、北条時宗書下、弘安五年壬午、(一二八二)、二月十八日、相模国極楽寺忍性、伊豆国熱海地蔵堂の鐘を造る、鐘銘写、七月十六日、一遍、伊豆国三嶋社に参詣する、その折、時衆七、八人、往生をとげる、一遍上人絵伝、弘安六年癸未、(一二八三)、五月一日、伊豆国大工磯部康広、箱根山東福寺浴堂の釜を鋳る、鉄釜銘、弘安七年甲申、(一二八四)、七月二十三日、平祐行、曽我泰光による伊豆国安富郷国吉名内田所免田の当知行を上申する、平祐行請文、十月十八日、日興、日保に書状を送り、伊豆国熱海での湯治について触れる、日興書状案、正応二年己丑、(一二八九)、十月十八日、伊豆守時、如妙経を埋納する、経筒銘、 正応三年庚寅、(一二九〇)、七月四日、名越公時、伊豆国安富郷国吉名田地の相論に際し、宮内卿殿局に弁明を求める、名越公時問状、正応五年壬辰、(一二九二)、五月十二日、正念寺最勝房、四日町蓮長寺に石塔を造立する、石塔銘、この年、伊豆国三嶋社に和歌が奉納される、夫木和歌抄、永仁元年癸巳、(一二九三)、正応六年八月五日改元、この頃、蓮愉、(宇都宮景綱)、伊豆国三島社に奉納された北条貞時十首に寄せて、和歌を詠む、沙弥蓮愉集、永仁三年乙未、(一二九五)、閏二月二日、二所代官長崎左衛門、評定に参る、永仁三年記、永仁四年丙申、(一二九六)、三月八日、伊豆国三島社、焼失する、鎌倉年代記裏書、永仁六年戊戌、(一二九八)、この年、日興、伊豆国仁田土佐房等の門弟・檀越に、本尊を与える、日興本尊分与帳、正安元年己亥、(一二九九)、永仁七年四月二十五日改元、この年、中国僧一山一寧、伊豆国修禅寺に幽閉される、元亨釈書、 嘉元元年癸卯、(一三〇三)、乾元二年八月五日改元、二月十五日、忍阿、奈古谷毘沙門堂参道に地蔵菩薩を造る、地蔵菩薩龕銘、六月二十日、熊野御師道済、伊豆国工藤・奥鈴木一門等に檀那信覚坊分を譲る、道済譲状案、嘉元二年甲辰、(一三〇四)、五月二十四日、曾我泰光、伊豆国安富郷国吉名内名田を子光頼に譲る、曾我泰光譲状、嘉元三年乙巳、(一三〇五)、四月八日、日興、箱根帥房の母に本尊を授与する、日興本尊、延慶元年戊申、(一三〇八)、徳治三年十月九日改元、十二月二十二日、この日の官符に、貞応頃、伊豆国願成就院が勅願寺となったことがみえる、太政官符、延慶二年己酉、(一三〇九)、二月二十三日、駿河国南条時光、同三郎に伊豆国南條南方武正名内を譲る、南条時光譲状、延慶三年庚戌、(一三一〇)、七月二十八日、伊豆国国清寺現蔵の金剛力士立像が造立される、金剛力士立像胎内銘、元亨元年辛酉、(一三二一)、元応三年二月二十三日改元、七月十八日、某、石塔を造立する、石塔銘、元亨三年癸亥、(一三二三)、十月二十六日、鎌倉円覚寺において、北条貞時十三年忌供養法会が行われ、会場作事の用材が伊豆国土肥山などより進上される、北条貞時十三年忌供養記、嘉暦元年丙寅、(一三二六)、正中三年四月二十六日改元、八月十日、加藤景廉孫の極楽寺順忍、没する、蔵骨器銘、嘉暦二年丁卯、(一三二七)、三月五日、北条高時、二所・三島社に参詣する、鎌倉年代記裏書、三月十日、北条高時、二所参詣より鎌倉に帰る、覆載万安方奥書、五月十八日、尼聖禅、伊豆国矢田郷等を譲る、聖禅譲状、十一月十日、日目、伊豆国内の所領等を日道に譲る、日目譲状、嘉暦三年戊辰、(一三二八)、十月十三日、南部武行、伊豆国二宮の田畑・屋敷を同行宗に譲る、南部武行譲状写、元徳元年己巳、(一三二九)、嘉暦四年八月二十九日改元、三月上旬、鎌倉建長寺清拙正澄、伊豆国三島社に参詣して、神徳を詠ずる、亀鑑集、 元徳三年・元弘元年辛未、(一三三一)、元徳三年八月九日改元、二月、伊豆国走揚権現の鐘が造られる、鐘銘写、元弘二年・正慶元年壬申、(一三三二)、元徳四年四月二十八日改元、三月二十二日、太政官庁において、光厳天皇即位の儀が行われ、伊豆国に北門の鋪設が課せられる、頼定卿記、元弘三年・正慶二年癸酉、(一三三三)、五月上旬、足利高氏の嫡子竹若丸、伊豆山より上洛の途中、幕府の使者に殺される、太平記、五月二十七日、北条高時の嫡男邦時、五大院宗繁のもとより伊豆山に逃れる、太平記、南北朝時代、七月二十五日、後醍醐天皇、覚海円成に田方郡北条宅を安堵する、後醍醐天皇綸旨写、十一月十一日、足利尊氏、方便智院領那賀郡井田庄内を空明に交付する、足利尊氏御判御教書、十二月二十九日、足利尊氏、奈古屋郷地頭職を上杉憲房に、宇佐美郷を上杉五郎に、勲功の賞として給与する、足利尊氏御判御教書、この年、北条氏の跡として足利尊氏が得た所領に那賀郡仁科・宇久須郷が、 また同直義が得た所領に田方郡奈古谷がみえる、足利尊氏・同直義所領目録、建武元年甲戌、(一三三四)、元弘四年一月二十九日改元、三月六日、上杉重能、矢田部盛親を三島社正神主に就けるよう目代に命ずる、上杉重能施行状、八月十五日、足利尊氏、三島社正神主盛親に田方郡内の神領を交付する、足利尊氏御判御教書、九月二十三日、伊豆国目代祐禅、三福郷内の田地・在家を三島社に打渡す、祐禅打渡状、この年、足利直義、山城国正脉院に田方郡安久荘を寄進する、正脉塔院碑銘、建武二年乙亥、(一三三五)、八月十六日、北条時行らを討伐するため、同月二日に京都を進発した足利尊氏、この日伊豆国府に到着し、翌日箱根で合戦をおこなう、足利尊氏関東下向宿次・合戦注文、九月二十四日、足利尊氏、三福郷を三島社に寄進する、足利尊氏寄進状、十一月十九日、新田義貞・脇屋義助・同義治ら、足利尊氏討伐のため京都を進発する、太平記、十二月五日、足利尊氏討伐のため京都より下向した新田義貞・脇屋義助ら、この日駿河国手越川原で足利軍を破り、伊豆国府に進撃し東山道の官軍を待ってここに逗留する、太平記、十二月十二日、箱根竹下の戦いに、脇屋義治が初陣を飾る、太平記、十二月十一日、足利尊氏、箱根竹之下で新田義貞・脇屋義助らと戦う、梅松論、建武三年・延元元年丙子、(一三三六)、建武三年二月二十九日改元、四月、武者所交名の五番に脇屋義治がみえる、武者所結番定文、五月、新田義貞・脇屋義助・同義治ら、後醍醐天皇とともに比叡山に逃れる、太平記、八月二十五日、祐禅、田方郡長崎郷を、三島社代官頼円に打渡す、祐禅打渡状、十月十日、新田義貞、脇屋義助・義治ら、北国に落ちる、太平記、十月十四日、脇屋義助、杣山城の瓜生判官保の弟義鑑坊に、子息義治を託す、太平記、十一月八日、脇屋義治、杣山城に兵を挙げる、太平記、 十一月二十九日、杣山城の瓜生勢が、斯波高経の新善光寺城を攻め落とし、ついで脇屋義治の願いによって金崎城への救援を図る、太平記、建武四年・延元二年丁丑、(一三三七)、正月十一日、脇屋義治、金崎城を救援するも、義鑑坊が討ち死にする、太平記、正月、杣山城にて、瓜生判官保の老母が、義治に心中を語って全軍を鼓舞する、太平記、暦応元年・延元三年戊寅、(一三三八)、建武五年八月二十八日改元、正月七日、北畠顕家、三島社に田方郡安久郷を寄進する、北畠顕家寄進状、五月二十七日、幕府、大立野村内の田地・在家を、伊豆山密巌院に交付するよう、上杉重能に命ずる、執事高師直奉書、閏七月十一日、新田義貞の討死を知った、脇屋義助・義治が越前国府中に帰る、太平記、十二月十九日、足利直義、上杉憲顕に、上杉重能が出仕を止められたことを報じ、上洛を命ずる、足利直義御教書、暦応二年・延元四年己卯、(一三三九)、四月五日、足利直義、円成寺に、田方郡北条五か郷などを寄進する、足利直義寄進状案、暦応三年・興国元年庚辰、 (一三四〇)、延元五年四月二十八日改元、五月十七日、田代房綱の申請により、所領文書の紛失に関して、足利直義が発給した下知状に、伊豆国守護代祐禅の名がみえる、足利直義下知状案、康永二年・興国四年癸未、(一三四三)、この年、備前国児島の住人三宅高徳、脇屋義治を大将として挙兵し、入京をはかるも敗北して信濃に逃れる、太平記、貞和元年・興国六年乙酉、(一三四五)、康永四年十月二十一日改元、十一月十九日、幕府、修禅寺の塔婆を伊豆国利生塔に指定する、足利直義御教書、貞和二年・正平元年丙戌、(一三四六)、興国七年十二月八日改元、この年、伊豆山密厳院、伊豆国目代祐禅の濫妨停止などを、幕府に訴える、伊豆山密厳院雑掌宗泰申状案、伊豆山密厳院雑掌澄宣申状案、貞和三年・正平二年丁亥、(一三四七)、三月二十七日、祐禅、田方郡郡宅郷内の名田を三島社神主代に打渡す、祐禅打渡状、貞和四年・正平三年戊子、(一三四八)、七月、妙■、国清寺に石塔を造立する、石塔銘、鎌倉大草紙、貞和五年・正平四年己丑、(一三四九)、五月九日、上杉憲顕、三島宮大夫に鎌倉入りを報じ、祈祷の礼を述べる、上杉憲顕書状、観応元年・正平五年庚寅、(一三五〇)、貞和六年二月二十七日改元、十二月十五日、石塔義房、田方郡郡宅郷内の名田を、三島社神主盛実代光頼に交付する、石塔義房書下案、観応二年・正平六年辛卯、(一三五一)、二月五日、足利直義、高師直・師泰討伐のため、伊豆の河原谷兵庫助に参陣を命ずる、足利直義御教書写、二月二十二日、石塔義房、田方郡郡宅郷内の名田を、三島社神主盛実代光頼に交付する、石塔義房書下、三月二十七日、石塔義房、三島社供料所郡宅郷内の地を、同社家に交付する、石塔義房書下、六月二十五日、足利直義、足利基氏に命じて、江馬荘の地を伊豆国利生塔領に渡させる、足利直義御教書、 十一月八日、足利義詮、伊豆山密厳院別当隆舜に、戦勝を祈願させる、足利義詮書状案、十一月九日、足利尊氏、関東下向に際して、三島社に祈祷をさせる、足利尊氏御判御教書写、十一月二十九日、足利尊氏、薩?山に陣を布き、上杉憲顕ら足利直義勢がこれを攻める、太平記、十二月二日、足利直義、上杉能憲に、江馬荘内の地を修禅寺に交付するよう命ずる、足利直義御教書写、十二月五日、上杉能憲、江馬荘内の地を修禅寺に交付する、上杉能憲書下、十二月七日、洞院公賢、足利尊氏・直義の講和が伊豆国府付近で成立したとのうわさを聞く、園太暦、十二月二十五日、足利直義、伊豆山上常行堂衆徒に、伊豆路の警固を命ずる、足利直義御教書、十二月二十七日、足利尊氏の軍勢が、直義らを足柄山に破って伊豆国府に攻め寄せ、直義は北条へ、上杉憲顕は信濃に逃れる、太平記、十二月、上杉憲顕、伊豆国に赴く、中岩月和尚自暦譜、文和元年・正平七年壬辰、(一三五二)、観応三年九月二十七日改元、正月、佐藤元清、小夜中山で上杉勢を打ち破ったことなど、諸所の合戦における軍忠を上申する、 佐藤元清軍忠状写、正月、伊達景宗、上杉能憲らと薩?山付近で戦った軍忠について上申する、伊達景宗軍忠状、正月、別符幸実、由比山において上杉憲将の陣を破る軍功を上申する、別符幸実軍忠状、正月、高麗経澄、上杉憲顕方の誅伐を談合するなど、軍忠を上申する、高麗経澄軍忠状、閏二月八日、脇屋義治、新田義興・同義宗ら、西上野に挙兵して武蔵国に攻め入る、太平記、閏二月二十日、脇屋義治、新田義興・同義宗ら、武蔵国小手指原にて足利尊氏と戦う、太平記、閏二月二十三日、脇屋義治・新田義興、鎌倉に乱入する、喜連川判鑑、閏二月二十五日、足利尊氏、三島社に凶徒退治の祈祷を命ずる、足利尊氏御判御教書写、閏二月二十八日、脇屋義治・新田義興、鎌倉を攻め、足利基氏を破ってこれを占拠する、太平記、閏二月二十八日、足利尊氏、碓氷峠の新田義宗を攻め、義宗は越後に、上杉憲顕は信濃に逃れる、太平記、三月四日、洞院公賢、関東における合戦の様子を記し、脇屋義治のことがみえる、園太暦、三月四日、脇屋義治・新田義興、鎌倉を捨てて相模国国府津に逃れる、太平記、三月二十六日、畠山国清、狩野荘熊坂村を、鎌倉法泉寺に交付する、伊豆守護畠山国清書下、文和二年・正平八年癸巳、(一三五三)、十一月八日、越後国小田城攻め・新堀宿合戦などに破れた脇屋義治らが没落する、羽黒義成軍忠状、羽黒景茂軍忠状、文和三年・正平九年甲午、(一三五四)、九月二十三日、越後において宗良親王・脇屋義治らが攻勢に出て、宇加地城などで合戦が行われる、羽黒義成代同景茂軍忠状、閏十月二十六日、足利基氏、田方郡馬宮荘上方地頭職を正法蔵寺に寄進する、鎌倉公方足利基氏御教書、十一月二十一日、左衛門尉、田方郡馬宮荘上方地頭職を正法蔵寺に打渡す、左衛門尉某打渡状、 文和四年・正平十年乙未、(一三五五)、四月二日、越後において宗良親王・脇屋義治らが峰起し、青海庄賀茂口陣峰・志都乃岐庄木野嶋・大嶋庄平方原などで合戦となる、羽黒義成軍忠状、文和二~四年癸巳~乙未、(一三五三~一三五五)、十二月九日、足利尊氏、正法蔵寺領田方郡馬宮荘上方地頭職に関わる訴えの処置を、畠山国清に命ずる、足利尊氏御内書、延文元年・正平十一年丙申、(一三五六)、文和五年三月二十八日改元、八月十三日、畠山国清、田方郡吉祥寺に三島社塔婆・三昧堂の造営を命ずる、伊豆守護畠山国清書状、延文三年・正平十三年戊戌、(一三五八)、この年、武蔵・上野の者より、越後の脇屋義治・新田義興・同義宗の下に関東出陣の要請がなされるが、義治・義宗はこれを頼むにたらずと拒否する、太平記、延文四年・正平十四年己亥、(一三五九)、十月二日、石塔範茂、田中郷を伊東祐茂に安堵する、石塔範茂書下、延文五年・正平十五年庚子、(一三六〇)、二月四日、後村上天皇、浮橋村地頭職を宇佐美為成に給与する、後村上天皇綸旨案、康安元年・正平十六年辛丑、(一三六一)、延文六年三月二十九日改元、 六月一日、畠山国清、田方郡郡宅郷を三島社に返付する、伊豆守護畠山国清書下、六月二十五日、足利基氏、畠山国清の申請により、田方郡郡宅郷内の地を三島社に寄進する、鎌倉公方足利基氏寄進状案、八月十六日、足利義詮、畠山国清に、田方郡多留郷を富樫氏春に安堵するよう命ずる、足利義詮御内書写、九月十五日、足利義詮、畠山国清没落につき、上杉憲顕に申し送る、将軍足利義詮書状、十一月十三日、畠山国清・義深兄弟ら、足利基氏に叛いて、伊豆修善寺に立て籠もる、太平記、十一月二十六日、足利基氏、安保泰規・波多野高道に畠山国清討伐を命ずる、鎌倉公方足利基氏御教書、鎌倉公方足利基氏御教書案、貞治元年・正平十七年壬寅、(一三六二)、康安二年九月二十三日改元、二月八日、足利義詮、伊豆国に城郭を構えた畠山国清らの討伐を、金子越中守に命ずる、足利義詮御内書写、二月十三日、足利義詮、円成寺領の民家に対する軍勢の濫妨を停止する、足利義詮御判御教書、二月二十一日、足利基氏、畠山国清らを討伐するため、岩松直国を神余城に出発させる、鎌倉公方足利基氏御教書写、三月二十七日、畠山国清配下の遊佐・神保・杉原ら、伊豆国府に平一揆を攻めるが、関東の大軍に反撃され、国清は金山城を捨てて修善寺城に立て籠もる、太平記、四月二十五日、足利基氏、戦勝を祈願して、畠山国清から没収した田方郡矢田郷郷司職・名田を三島社に寄進する、鎌倉公方足利基氏寄進状、関東管領高師有奉書、五月二十五日、上杉頼重、三島社に矢田郷郷司職・名田を打渡す、上杉頼重打渡状、五月二十八日、足利基氏、岩松直国の戦功を賞する、鎌倉公方足利基氏書状写、六月十二日、某、神益城討伐の祈祷を伊豆山衆徒に命ずる、某書下写、 六月二十一日、足利基氏、岩松直国をして、立野城攻めの軍勢に雑説に惑わされぬよう伝えさせる、鎌倉公方足利基氏書状写、七月六日、足利基氏、三島社領への軍勢の濫妨独狼藉を停止する、鎌倉公方足利基氏御教書、関東管領高師有奉書、八月六日、足利基氏、畠山国清らを討伐するため、志村刑部丞を立野城へ向わせる、鎌倉公方足利基氏御教書写、八月十六日、足利基氏、伊豆に出陣する、神明鏡、九月十日、畠山国清ら、足利基氏に降伏する、太平記、頼印大僧正行状絵詞、九月、中村定行、伊豆国における畠山国清との合戦の軍忠を上申する、中村定行軍忠状写、十月二十五日、波多野高道、伊豆国における畠山国清との合戦の軍忠を上申する、波多野高道着到状案、貞治二年・正平十八年癸卯、(一三六三)、二月六日、足利基氏、立野城攻めにおける豊島修理亮の戦功を賞する、鎌倉公方足利基氏御教書、貞治三年・正平十九年甲辰、(一三六四)、六月十一日、足利基氏、畠山国清に同意した安保泰規の所領没収を伝える、鎌倉公方足利基氏書状写、九月四日、足利義詮、関東管領上杉憲顕に、伊豆山密厳院別当職に醍醐寺三宝院光済を補任した旨を伝える、 将軍足利義詮書状案、十二月十六日、足利基氏、田方郡多呂郷を鎌倉円覚寺正続院に寄進する、鎌倉公方足利基氏寄進状、十二月二十三日、上杉憲春、高坂氏重に命じて、田方郡多呂郷を鎌倉円覚寺正続院に交付する、関東管領上杉憲春奉書、十二月二十五日、足利基氏、伊豆山密厳院別当職を醍醐寺三宝院光済に交付する、鎌倉公方足利基氏御教書案、十二月二十八日、高坂氏重、伊豆山密厳院別当職を醍醐寺三宝院光済に交付する、伊豆守護高坂氏重書状案、貞治四年・正平二十年乙巳、(一三六五)、正月十九日、横田満、伊豆山密厳院別当職を醍醐寺三宝院光済に打渡す、横田満打渡状案、三月六日、上杉憲顕、伊豆山密厳院末寺越後国国分寺を、醍醐寺三宝院光済に交付するよう、上杉憲将に命ずる、関東管領上杉憲顕書状案、貞治六年・正平二十二年丁未、(一三六七)、十月十二日、佐々木高氏、田方郡熊坂郷を鎌倉法泉寺に交付する、佐々木高氏奉書、応安元年・正平二十三年戊申、(一三六八)、貞治七年二月十八日改元、七月、脇屋義治、越後・上野の境に兵を挙げ、敗れて出羽国に逃れる、喜連川判鑑、応安二年・正平二十四年己酉、(一三六九)、四月十三日、上杉憲重、三島社神主盛実に、同社神事祭礼等を執行させる、上杉憲重打渡状、七月十三日、これより先、国清寺開山無礙妙謙、源叟妙本を同寺二世とし、この日、没する、空華集、本朝高僧伝、十月三日、幕府、上杉能憲を伊豆守護職に任命する、管領細川頼之奉書、応安三年・建徳元年庚戌、(一三七〇)、正平二十五年七月二十四日改元、六月十五日、鎌倉府、三島社神主盛直に天下安全を祈らせる、関東管領上杉能憲奉書、 九月二日、畠山国■、畠山国清らの菩提を弔うため、中嶋郷地頭職半分を田方郡の吉祥寺に寄進する、畠山国?寄進状案、十一月十三日、上杉能憲、足利氏満の病気平癒の願文を、三島社にとり進める、関東管領上杉能憲書状、応安四年・建徳二年辛亥、(一三七一)、閏三月二十日、上杉能憲、三島社神事に対する宮左近将監・西大夫らの濫妨を停める、関東管領上杉能憲奉書、七月二日、幕府、畠山国?寄進状の紛失により、中嶋郷半分を改めて吉祥寺に安堵する、管領細川頼之奉書案、十二月六日、上杉能憲、三島社神主盛直の訴えにつき指示する、関東管領上杉能憲書状、応安五年・文中元年壬子、(一三七二)、建徳三年四月改元、十一月十四日、幕府、上杉能憲に命じて、田方郡吉祥寺に相模国葉山郷内長江村を安堵する、管領細川頼之奉書、応安六年・文中二年癸丑、(一三七三)、四月五日、幕府、下総国下幸嶋荘等の替地不足分として、上杉能憲に大見郷等を給与する、管領細川頼之奉書、十一月十日、幕府、上杉能憲に、田方郡多留郷を富樫昌家に打渡すよう命ずる、管領細川頼之奉書写、永和元年・天授元年乙卯、(一三七五)、応安八年二月二十七日・文中四年五月二十七日改元、九月四日、幕府、上杉能憲に、三島社神主盛直に御師職と長崎郷の安堵を命ずる、 管領細川頼之奉書、永和四年・天授四年戊午、(一三七八)、四月十七日、伊豆守護・関東管領上杉能憲が死去する、空華日用工夫略集、康暦元年・天授五年己未、(一三七九)、永和五年三月二十二日改元、三月十日、足利氏満に謀反を企てるも、上杉憲春の諌死により改心し、上杉憲方を関東管領に任ずる、鎌倉大日記生田本裏書、鎌倉大草紙、康暦二年・天授六年庚申、(一三八〇)、この年、国清寺が准十利となる、扶桑五山記、永徳二年・弘和二年壬戌、(一三八二)、九月二十五日、足利氏満、郡宅郷内市原在家を、三島社東大夫盛直に交付するよう、上杉憲方に命ずる、鎌倉公方足利氏満御教書、十月十六日、上杉憲方、郡宅郷内市原在家を、三島社東大夫盛直に交付するよう、大石能重に命ずる、伊豆守護上杉憲方書下、十月二十六日、大石能重、郡宅郷内市原在家を、三島社東大夫盛直に打渡す、大石能重打渡状、至徳元年・元中元年甲子、(一三八四)、永徳四年二月二十七日・弘和四年四月二十八日改元、四月一日、大石能重ら、上杉憲孝の書状を義堂周信に届ける、空華日用工夫略集、至徳三年・元中三年丙寅、(一三八六)、五月二十五日、幕府、宇加賀・下田、(小下田)、両郷を醍醐寺地蔵院道快に返付するよう、上杉憲方に命ずる、管領斯波義将奉書案、嘉慶元年・元中四年丁卯、(一三八七)、至徳四年八月二十三日改元、九月二十日、上杉憲方、国清寺等への、惣領による保護を定め置く、上杉憲方置文、十月十日、上杉憲方、三島社神主・御師職・神領等の訴訟で鎌倉に滞在する同社東大夫を、大祭礼執行のため帰らせる、関東管領上杉憲方奉書、 嘉慶二年・元中五年戊辰、(一三八八)、十二月二十七日、上杉憲方、同顕房への譲状に、国清寺が惣領保護の寺院であることを記す、上杉憲方譲状、明徳二年・元中八年辛未、(一三九一)、八月六日、幕府、宇加賀・下田、(小下田)、両郷を、醍醐寺地蔵院道快に返付するよう、重ねて上杉憲方に命ずる、管領細川頼元奉書、室町時代、応永二年乙亥、(一三九五)、七月二十四日、足利義満、上杉憲定を伊豆国守護職に補任し、所領を安堵する、足利義満御判御教書、将軍足利義満御判御教書、応永三年丙子、(一三九六)、七月二十三日、幕府、鶴喰等の地を、上杉憲定に交付するよう、上杉朝宗に命ずる、管領斯波義将奉書、応永四年丁丑、(一三九七)、九月九日、寺尾憲清、鎌倉大仏寺との訴訟について、三島社神主盛平に参府を命ずる、伊豆守護代寺尾憲清奉書、応永五年戊寅、(一三九八)、閏四月十日、幕府、伊豆山密厳院別当職等を醍醐寺満済に交付するよう、上杉朝宗に命ずる、管領斯波義将奉書案、応永六年己卯、(一三九九)、四月、田方郡大宮社が遷宮される、棟札銘、六月六日、幕府、伊豆山密厳院別当職・寺領等を、醍醐寺満済に交付するよう、上杉朝宗に命ずる、管領畠山基国奉書案、九月十三日、上杉憲定、三島社における犯罪人の逮捕規定を同社に報ずる、 伊豆守護上杉憲定書下、応永七年庚辰、(一四〇〇)、正月十八日、足利義満、上杉憲定に、今川貞世の討伐を命ずる、足利義満御内書、難太平記、今川記、五月二十五日、上杉憲定、三島社に参詣する、鎌倉大日記、六月十五日、足利満兼、三島社に願文を納める、鎌倉公方足利満兼願文、応永八年辛巳、(一四〇一)、五月十三日、鎌倉府、寺尾憲清に、三島社狼籍人糾明のため、梅原憲宗を召還するよう命ずる、鎌倉府奉行人連署奉書、七月二十三日、鎌倉府、寺尾憲清をして、梅原憲宗の国府退去を命ずる、直高書状、十月七日、鎌倉府、寺尾憲清に、三島社東西読経所領等への役夫工米の催促停止を命ずる、鎌倉府奉行人連署奉書、十月二十三日、寺尾憲清、東西読経所領等への役夫工米の催促停止を三島社に伝える、伊豆守護代寺尾憲清奉書、十二月二十九日、寺尾憲清、熱海郷闕所分の請文を、鎌倉府に進上する、伊豆守護代寺尾憲清請文、応永九年壬午、(一四〇二)、八月十九日、寺尾憲清、山木郷内等を三島社東大夫盛平に打渡す、伊豆守護代寺尾憲清打渡状、応永十三年丙戌、(一四〇六)、六月十六日、寺尾憲清、水飲関所を鎌倉円覚寺雑掌に打渡す、伊豆守護代寺尾憲清打渡状、六月二十三日、上杉憲定、蒲谷御厨内田牛村を三島社に交付するよう、寺尾憲清に命ずる、上杉家奉行人連署奉書、閏六月十五日、足利満兼、伊豆国府中関所を、鎌倉円覚寺法堂造営料所として寄進する、鎌倉公方足利満兼御教書、閏六月十五日、寺尾憲清、蒲谷御厨内田牛村を三島社神主盛平に打渡す、伊豆守護代寺尾憲清打渡状、 七月一日、大森頼春、鎌倉円覚寺法堂造営料所伊豆国府中関所の代官職を請負う、大森頼春押書、応永十四年丁亥、(一四〇七)、春、上杉憲定、国清寺を鎌倉佐介谷に移し、松嶺道秀を中興関山に招こうとしたが、固辞される、証羊集、応永十六年己丑、(一四〇九)、閏三月九日、上杉憲定、多留郷国衙職を、鎌倉円覚寺正続院に寄進する、伊豆守護上杉憲定寄進状、上杉家奉行人連署奉書、閏三月十六日、寺尾憲清、上杉憲定の命を受け、多留郷の下地を鎌倉円覚寺正続院に打渡す、伊豆守護代寺尾憲清打渡状、応永十九年壬辰、(一四一二)、六月二日、幕府、上杉氏憲に、伊豆山密厳院別当職を、鶴岡八幡宮寺尊賢に渡すよう命ずる、管領細川満元奉書案、十二月二十九日、足利義持、上杉憲基を伊豆守護職に補任する、足利義持御判御教書、応永二十年発巳、(一四一三)、二月十七日、鶴岡八幡宮寺尊賢、伊豆山院主職等を、上杉竜徳丸に譲る、尊賢院主職等譲状案、応永二十二年乙未、(一四一五)、四月十二日、道春、寺尾憲清に、称光天皇即位段銭免除のことを伝える、道春書状、五月六日、上杉憲基、安久郷のことにつき、山城国正脉院の要望を了承したことを伝える、上杉憲基書状、十一月九日、上杉憲基、稲梓郷内の地を三島社に寄進する、伊豆守護上杉憲基寄進状、上杉家奉行人連署奉書、十一月十五日、寺尾憲清、 稲梓郷内の地を三島社雑掌に打渡す、伊豆守護代寺尾憲清打渡状、応永二十三年丙申、(一四一六)、十月七日、上杉氏憲らの謀反により、足利持氏がこの日三島に逃れ、さらに駿河国瀬名に赴く、鎌倉大日記生田本裏書、鎌倉大草紙、神明鏡、喜連川判鑑、続太平記、十月十日、狩野介・伊豆山衆徒ら、国清寺の上杉憲基を攻める、鎌倉大草紙、中古日本治乱記、十月十三日、貞成親王、上杉氏憲が謀反をおこし、足利持氏らが駿河国境へ逃れたことを聞く、看聞日記、十月十六日、三島の合戦で破れた足利持氏と上杉憲基が自害したとの報が、駿河守護今川範政より京都に届く、満済准后日記、看聞日記、十月十八日、足利持氏の自害は誤報で、駿河大森にいることが報じられる、満済准后日記、十月二十九日、幕府、足利持氏を支援することを決定し、駿河守護・越後守護に合力を要請する、また、上杉憲基の自害は虚説で、行方知れずであることが報じられる、看聞日記、十月三十日、足利持氏と上杉憲基が駿河国大森に逃れたとのうわさがながれる、八幡宮愛染王法雑記、十二月二十五日、駿河守護今川範政、幕府の命により、関東の諸士に、足利持氏への同心を促す、駿河国入江庄・箱根水呑・武蔵世谷原などで合戦があり、翌年正月に禅秀一党は自害して、持氏が鎌倉に帰還する、駿河守護今川範政書状写、鎌倉大草紙、今川記、異本塔寺長帳、続太平記、応永二十四年丁酉、(一四一七)、四月二十六日、上杉憲基、関東管領を辞して三島に下向する、鎌倉大日記生田本裏書、 五月四日、満済、上杉憲基の伊豆下向のことを聞く、満済准后日記、五月十八日、上杉憲基、浮橋村を三島社に寄進する、伊豆守護上杉憲基寄進状、上杉家奉行人連署奉書、伊豆守護代寺尾憲清打渡状、道基書状、五月二十二日、上杉憲基、三島社における犯罪人の処置について、同社神主に報ずる、伊豆守護上杉憲基書下、閏五月二十五日、足利持氏、上杉憲基に伊豆・上野両国の闕所分を安堵する、鎌倉公方足利持氏御教書、七月一日、足利義持、鎌倉公方足利持氏に、醍醐寺隆源の伊豆山密厳院別当職補任を伝え、管領細川満元が、関東管領上杉憲基に、この旨を伝える、足利義持御判御教書案、管領細川満元書状案、七月四日、足利義持、上杉憲基に伊豆・上野両国の闕所分を安堵する、足利義持御判御教書、応永二十五年戊戌、(一四一八)、八月三日、上杉憲基、三島社東大夫に、長崎郷の年貢の処置を指示し、守護代大石信重に下地の打渡しを命ずる、上杉家奉行人連署奉書、八月二十七日、大石道守、長崎郷を三島社東大夫に打渡す、伊豆守護代大石道守打渡状、応永二十六年己亥、(一四一九)、八月二十八日、足利義持、上杉憲実を伊豆守護職に補任する、足利義持御判御教書、応永二十九年壬寅、(一四二二)、五月二十二日、上杉憲実、三島社東西読経所等の供僧領の役夫工米を免除する、上杉家奉行人連署奉書、この年、上杉氏憲の子憲顕・教朝が京都より下向し、 三島・沼津を焼討ちするという、喜連川判鑑、応永三十年癸卯、(一四二三)、五月十八日、上杉憲実、鎌倉円覚寺造営料所伊豆国府中関所の存続を認める、上杉家奉行人連署奉書、伊豆守護代寺尾憲清書状、八月十八日、足利義持、関東討伐のため上杉憲久を伊豆に派遣したことを、常陸国山入祐義に伝える、足利義持御内書写、八月十九日、畠山満家、上杉憲久を伊豆に派遣したことなどを、信濃園小笠原政康に伝える、管領畠山満家書状、八月二十四日、貞成親王、関東討伐軍の旗が、駿河守護今川範政に下されたと聞く、看聞日記、応永三十二年乙巳、(一四二五)、九月二十六日、上杉憲実、鎌倉の浄光明寺領三津荘内四か村の人夫役を免除する、上杉家奉行人連署奉書、応永三十三年丙午、(一四二六)、十二月二十七日、上杉憲実、宇加賀・下田両郷を、醍醐寺地蔵院雑掌に交付する、上杉家奉行人連署奉書、永享四年壬子、(一四三二)、八月二十九日、足利義教の富士下向についての、上杉憲実の申入れへの返事が検討される、満済准后日記、八月三十日、上杉憲実、足利義教の富士下向を延期するよう幕府に注進する、満済准后日記、永享六年甲寅、(一四三四)、十一月三日、関東の雑税を究明するため、上杉憲実に書状を出すことが決定される、満済准后日記、十二月二十九日、中原師貞、長尾景仲が横領した伊東荘内所々田畠山野を、万寿寺雑掌に打渡す、中原師貞打渡状、 永享八年丙辰、(一四三六)、十二月、足利持氏、小笠原政康と村上頼清の紛争に介入しようとし、上杉憲実が諌止する、喜連川判鑑、永享九年丁巳、(一四三七)、六月~八月、足利持氏、上杉憲実との関係修復をはかろうとする、喜連川判鑑、永享十年戊午、(一四三八)、六月、足利持氏、嫡子の元服につき関東管領上杉憲実の諌止を無視する、喜連川判鑑、七月二十四日、今川範忠、相模国早川尻成田にて上杉憲直ら足利持氏勢を破り、討伐軍の主将上杉持房もこれに合流する、今川記、七月三十日、幕府、駿河守護今川範忠に、上杉憲実に加勢するよう命ずる、管領細川持之書状写、八月二十七日、幕府管領細川持之、上野国に下向した上杉憲実に助力を求める、細川持之書状写、八月二十八日、幕府、上杉持房を総大将として、足利持氏討伐軍を関東に差し向ける、上杉憲実記、九月十日、足利持氏追討の上杉持房ら、遠江の国人横地・勝間田氏らを率いて箱根山に至るが、水飲の合戦で持氏方の大森氏・箱根別当らに敗れる、今川記、九月二十四日、遠江守護代甲斐常治、遠江国人大谷某が大森一族を破ったことを注進する、看聞日記、十月十三日、足利義教、伊豆合戦において敗死した上杉憲直・憲家父子の首を実検する、師郷記、十二月五日、管領細川持之、上杉憲実に、鎌倉永安寺に籠もった足利持氏を攻めるよう催促する、室町幕府管領細川持之書状案、永享十一年己未、(一四三九)、正月、駿河守護今川範忠ら鎌倉を攻め、上杉憲実もこれに合流する、鎌倉九代後記、 閏正月二十四日、足利義教、足利持氏誅伐に関して上杉憲実に究明する旨等を、小笠原政康・赤松中務少輔に伝える、将軍足利義教御内書、二月十日、足利持氏・同満貞、鎌倉永安寺で自害する、関東合戦記、六月二十九日、管領細川持之、上杉憲実に、隠居を許容しない旨を伝える、室町幕府管領細川持之書状案、十二月六日、上杉憲実、出家して奈古谷の国清寺に引籠る、永享記、この年、上杉憲実、足利持氏追薦のため、蔵春院を建て、実山永秀を開山とする、日本洞上聯燈録、永享十二年庚申、(一四四〇)、三月二十七日、足利義教、上杉憲実の政務復帰を求める、足利義教下文、四月六日、国清寺に引籠っていた上杉憲実、幕府の命により鎌倉に帰参する、永享記、十一月十三日、上杉憲実、吾宝宗?を招き、最勝院の開山とする、日本洞上聯燈録、嘉吉二年壬戌、(一四四二)、十月二十日、足利義勝、上杉憲実の子息龍春、(房顕)、への所領譲与を認める、室町将軍家足利義勝御教書、十二月五日、上杉憲実、次男龍春、(房顕)、に京都奉公と越後の所領譲与に関する御教書について報ずる、上杉長棟憲実書状、嘉吉三年癸亥、(一四四三)、三月上旬、三福に、熊野三社大権現が勧請される、木札銘写、 文安元年甲子、(一四四四)、嘉吉四年二月五日改元、八月六日、上杉憲実、次男龍春、(房顕)、に越後知行分について申し送る、上杉長棟憲実書状、八月、上杉憲実、次男龍春、(房顕)、に越後国上田荘と国街領半分を譲る、上杉長棟憲実譲状、上杉長棟憲実越後知行分文書目録、上杉長棟憲実置文、九月二日、上杉憲実、幕府に伺候する次男龍春、(房顕)、に、越後の知行地譲与の件などについて申し送る、上杉長棟憲実書状、上杉長棟憲実越後知行分重書案、九月、上杉憲実、丹波国何鹿郡漢部郷を次男龍春、(房顕)、に譲る、上杉長棟憲実譲状、文安三年丙寅、(一四四六)、四月五日、上杉憲実、丹波国漢部村を次男房顕に譲る、上杉長棟憲実譲状、上杉長棟憲実置文、文安四年丁卯、(一四四七)、三月十三日、上杉憲実の隠遁を翻意させるため、綸旨を出すことが決定される、建内記、三月二十三日、上杉憲実に出す綸旨の草案が検討される、建内記、三月二十四日、上杉憲実に出す綸旨の草案が決定される、建内記、六月五日、上杉憲実、丹波国八田郷内の地を次男房顕に譲る、上杉長棟憲実譲状案、上杉長棟憲実譲状、上杉長棟憲実丹波知行分重書案、上杉長棟憲実丹波国知行分重書案、八月十七日、長尾実忠、上杉憲実の命により、平井郷を召し上げられ、代替地を受けることを承諾する、長尾実忠書状、九月十八日、上杉憲実、平井郷を召し上げ、足利持氏後室の領所とする、上杉憲実書状、上杉憲実置文、十一月七日、臼田道珍ら、上杉憲忠に忠節を誓う、臼田道珍外六名起請文、文安五年戊辰、(一四四八)、九月二十七日、伊豆守護上杉氏、賀茂郡白浜村に三島社神役を催促する、上杉家奉行人連署奉書、宝徳元年己巳、(一四四九)、 文安六年七月二十八日改元、八月二十六日、上杉憲実、国清寺に隠退する、鎌倉大草紙、細川勝元書状、宝徳二年庚午、(一四五〇)、五月十二日、足利成氏、江島合戦の経緯などを幕府に報告し、上杉憲実の帰参を要請する、足利成氏書状写、鎌倉大草紙、五月二十七日、管領畠山持国、上杉憲実の帰国等のことにつき、足利成氏に伝える、徳本畠山持国書状、五月二十七日、管領畠山持国、江島合戦の事後処理において、上杉憲実の政務復帰について触れる、徳本畠山持国書状写、七月十日、管領畠山持国、上杉憲実に帰参を促す御教書が出されたことを報ずる、徳本畠山持国書状、八月晦日、管領畠山持国、上杉憲実の帰参について報ずる、徳本畠山持国書状、十月十一日、上杉憲実、子息憲忠帰参の御教書を返進すると、判門田祐元に伝える、上杉憲実書状写、この年、上杉憲実、国清寺を去って西国行脚に出る、鎌倉大草紙、享徳元年壬申、(一四五二)、宝徳四年七月二十五日改元、十二月五日、幕府、上杉憲忠に、熊野那智社造営料として、伊豆国の段銭の徴収を命ずる、管領畠山持国奉書写、 康正元年乙亥、(一四五五)、享徳四年七月二十五日改元、四月八日、斎藤基恒、駿河守護今川範忠が、足利成氏討伐のため出陣したことを聞く、斎藤基恒日記、四月十九日、細川勝元、矢野与次郎に、伊豆からの進発を命ずる、管領細川勝元書状写、閏四月三日、細川勝元、矢野与次郎が足利成氏方の軍勢を三島で破ったことを賞する、管領細川勝元感状写、五月二十八日、足利義政、波多野伊賀入道と矢野与次郎の、三島合戦における忠節を賞する、足利義政御内書案、伊勢貞親書状写、十一月十日、細川勝元、長尾能登守に、伊豆国の所々知行分が安堵されたことを伝える、管領細川勝元書状、長禄元年丁丑、(一四五七)、康正三年九月二十八日改元、十二月二十四日、足利政知、鎌倉公方として下向したが、伊豆国堀越に留まるという、鎌倉大草紙、今川記、長禄二年戊寅、(一四五八)、七月十七日、細川政家、三島社東大夫に三福の安堵を伝える、細川政家書状、八月六日、康清、三島社東大夫に、三福郷の安堵を伝える、康清書状、八月十日、力石右知、三島社東大夫に三福郷の安堵を伝える、力石右知書状、長禄三年己卯、(一四五九)、十一月、香蔵院珍祐、足利政知が年内中に鎌倉入りすると聞く、香蔵院珍祐記録、寛正元年庚辰、(一四六〇)、長禄四年十二月二十一日改元、二月、香蔵院珍祐、足利政知が未だ伊豆に留まっていると聞く、香蔵院珍祐記録、五月七日、京都東福寺の僧大極、足利政知が敵の来襲を受け、国清寺から退いたという噂を開く、碧山日録、五月、国清寺が修造される、香蔵院珍祐記録、七月、鶴岡八幡宮領相模国北深沢郷内台・洲崎両村知行衆が、代官職について足利政知と太田道灌らに訴える、香蔵院珍祐記録、八月二十二日、足利義政、足利政知が箱根山を越えるという噂を聞いて制止する、足利義政御内書写、寛正二年辛巳、 (一四六一)、十二月十九日、足利義政、駿河守護今川義忠に、足利政知への支援を要請する、足利義政御内書写、寛正三年壬午、(一四六二)、四月十六日、足利義政、伊豆の鎌倉浄智寺領押妨の訴訟につき、上杉家を奉行となすよう命ずる、蔭凉軒日録、寛正四年癸未、(一四六三)、閏六月三日、上杉家領平井郷が、山城国持地院領越後国曾禰村年貢等と交換されて、同院領となる、持地院衆連署状、十一月七日、足利義政、今川範将に、足利政知支援のため伊豆に出陣するよう要請する、足利義政御内書写、寛正六年乙酉、(一四六五)、八月十日、足利義政、伊豆の陣へ使者を派遣する、親元日記、文正元年丙戌、(一四六六)、寛正七年二月二十八日改元、閏二月十六日、季瓊真蘂、上杉憲実が死去すると聞く、蔭凉軒日録、十月十九日、幕府、宇加賀、下田、(小下田)、両郷に対する斉藤朝日教貞の違乱停止を、醍醐寺地蔵院に伝える、幕府奉行人連署奉書、文明三年辛卯、(一四七一)、三月、足利政知の軍、三島に攻め寄せた足利成氏の軍を破る、鎌倉大草紙、 文明四年壬辰、(一四七二)、二月二十三日、山田成由、江馬荘大明神に、鰐口を奉納する、鰐口銘、文明八年丙申、(一四七六)、九月、太田資長、今川家の家督争いに介入し、伊豆の足利政知を訪ねる、太田道灌状、鎌倉大草紙、今川記、今川家譜、文明九年丁酉、(一四七七)、十月三十日、興福寺の僧尋尊、足利政知が伊豆国で自害したとの噂を聞く、大乗院寺社雑事記、文明十四年壬寅、(一四八二)、十一月二十七日、足利成氏、足利義政との和睦にあたり、足利政知に伊豆国を進める、伊勢貞宗書状、伊勢貞宗書状案、長享元年丁未、(一四八七)、文明十九年七月二十日改元、五月二十八日、足利政知の次男清晃、上洛して天竜寺香厳院に入る、蔭凉軒日録、九月九日、蔵春院開山実山永秀、没する、日本洞上聯燈録、延徳元年己酉、(一四八九)、長享三年八月二十一日改元、三月三十日、興福寺大乗院の僧尋尊、細川政元が、足利政知の子清晃を、将草継嗣に推しているとの風聞を聞く、大乗院寺社雑事記、延徳二年庚戌、(一四九〇)、二月二十九日、大宮大明神が遷宮される、延徳三年辛亥、(一四九一)、五月二十六日、興福寺大乗院の僧尋尊、足利政知が四月三日に没したとの報を聞く、大乗院寺社雑事記、妙法寺記、明応元年壬子、(一四九二)、延徳四年七月十九日改元、四月三日、幕府、富永彦四郎に宇加賀・下田、(小下田)、両郷の年貢以下の執沙汰を命じ、上杉顕定に善処を求める、幕府奉行人奉書、六月二日、亀泉集証、国清寺を含む十刹位次簿を足利義材に呈する、蔭凉軒日録、戦国時代、明応二年癸丑、(一四九三)、この年、駿河国勢、伊豆国に進攻する、妙法寺記、北条五代記、今川記、明応三年甲寅、(一四九四)、この年、田中の大工室伏権右衛門が、田方郡海龍神社の造営にあたる、棟札銘、明応四年乙卯、(一四九五)、二月五日、伊勢宗瑞、勲功の賞として伊東祐遠に、 伊東七郷のうち本郷村を与える、伊勢長氏判物、八月、伊勢宗瑞、伊豆より甲斐に侵攻するが、和睦して引き上げる、妙法寺記、明応五年丙辰、(一四九六)、七月、上杉顕定裏封の文書目録に、平井郷がみえる、上杉家文書目録、十二月二十七日、伊勢宗瑞、柿木における高橋某の忠節の申し出を賞する、伊勢宗瑞感状、この年、足利茶々丸、武蔵国から甲斐国に赴き、富士に入山する、妙法寺記、明応六年丁巳、(一四九七)、四月二十五日、伊勢宗瑞、柏久保で戦功をあげた大見三人衆に、陣夫役等を免除ずる、伊勢宗瑞判物写、七月二日、伊勢宗瑞、伊東における敵方の動きを報じた大見三人衆を賞する、伊勢宗瑞感状写、十二月五日、伊勢宗瑞、大見三人衆の籠城を賞し、堅固な守備を命ずる、伊勢宗瑞書状写、伊勢宗瑞判物写、明応七年戊午、(一四九八)、三月、今杉吉次、大宮社の遷宮を行う、棟札銘写、八月、足利茶々丸、没する、王代記、 文亀元年辛酉、(一五〇一)、明応十年二月二十九日改元、正月十五日、地頭井郷某、木宮神社を造営する、棟札銘、六月十六日、遠江守護斯波義寛の被官上野介寛親、上杉顕定の被官土肥次郎に助力を依頼する、寛親書状、九月十八日、伊勢宗瑞、甲斐に侵攻して敗れる、妙法寺記、永正元年甲子、(一五〇四)、文亀四年二月三十日改元、九月二十五日、上杉顕定、上杉朝良・今川氏親・伊勢宗瑞と対陣し、武田信虎に出陣を求める、上杉顕定書状写、九月下旬、今川氏親・伊勢宗瑞、上杉朝良に加勢して上杉顕定軍を破る、宗長手記、今川家譜、上杉顕定書状写、十月四日、今川氏親、鎌倉に帰陣し、その後熱海で湯治し、韮山に休息して帰国する、宗長手記、今川家譜、永正三年丙寅、(一五〇六)、十一月八日、今井門右衛門尉、田方郡大平明神社を造営する、棟札銘写、永正六年己巳、(一五〇九)、十一月二十六日、南条長吉、大宮権現の遷宮を行う、棟札銘写、永正八年辛未、(一五一一)、三月五日、田方郡春日神社が再興される、棟札銘、永正九年壬申、(一五一二)、十一月二十六日、神余中島の大工与四良、槻ヶ瀬聖神社の社殿造営にあたる、棟札銘、永正十一年甲戌、(一五一四)、八月、伊勢宗瑞、韮山に一堂を建てるという、奪衣婆坐像胎内銘、永正十六年己卯、(一五一九)、四月二十八日、伊勢宗瑞、子息菊寿丸、(北条宗哲)、に所領を与える、伊勢宗瑞箱根領注文、北条記、永正十七年庚辰、(一五二〇)、十一月二十四日、大宮権現が遷宮される、棟札銘写、大永元年辛巳、(一五二一)、永正十八年八月二十三日改元、十一月二十一日、上杉道叶、賀茂郡林際寺山木の伐採を厳禁し、その遵守を誓約する、上杉道叶置文、大永四年甲申、(一五二四)、七月十六日、来宮大明神が建立される、棟札銘、大永五年乙酉、(一五二五)、五月二十日、宗長、田方郡古奈で湯治をして詠んだ和歌五十首を、三島社に奉納する、詠五十首和歌、大永六年丙戌、(一五二六)、九月八日、北条氏綱、三島社造営のため、 諸国勧進を認める、北条氏綱判物、大永七年丁亥、(一五二七)、十一月二十日、北条家、三島社の梵鐘造営のため、鋳物師所へ人足を出させる、北条家朱印状写、享禄三年庚寅、(一五三〇)、四月七日、北条家、津田正満に、狩野・田方における藍瓶銭徴収の権利を認める、北条家朱印状写、六月五日、北条家、三島鋳物師斎藤九郎右衛門を、走湯山梵鐘の大工職に任ずる、清水綱吉・笠原綱信連署奉書写、天文元年壬辰、(一五三二)、享禄五年七月二十九日改元、五月一日、杉山与三左衛門尉、来宮神社の修理を行う、棟札銘、十月十日、君沢郡子大権現が勧請される、棟札銘、天文二年癸巳、(一五三三)、九月二十四日、田方郡助神社の社殿が勧請造営される、棟札銘、天文三年甲午、(一五三四)、二月一日、鶴岡八幡宮寺造営にあたり、伊豆大工の番が定められる、快元僧都記、 二月五日、鶴岡八幡宮寺の北回廊の造営が、伊豆大工に割り当てられる、快元僧都記、二月二十三日、鶴岡八幡宮廻廊作事奉行に、伊豆番匠衆の担当がみえる、北条氏綱判物写、九月二十三日、田中の大工室伏八郎右衛門、田方郡櫟山村天神宮の社殿造営にあたる、棟札銘、天文四年乙未、(一五三五)、十月十三日、北条氏綱、伊豆国等の軍勢を率いて武蔵国河越へ出陣する、快元僧都記、天文五年丙申、(一五三六)、九月十九日、田方郡笠離大明神の社殿が修造される、棟札銘、天文六年丁酉、(一五三七)、十一月、北条家、鶴岡八幡宮寺造営のため、三島の檜皮師を招く、快元僧都記、天文七年戊戌、(一五三八)、三月九日、北条家、長岡の九郎右衛門に、伊豆国革職人の統率を命ずる、北条家朱印状、五月二十二日、北条家、津田正満に、伊豆国藍瓶役の徴収を認める、北条家朱印状写、天文八年己亥、(一五三九)、正月四日、鶴岡八幡宮寺造営につき、三島の檜皮師と奈良の檜皮師が打合せる、快元僧都記、六月二十日、鶴岡八幡宮寺造営につき、伊豆国より檜皮師与次郎が到着する、快元僧都記、閏六月一日、伊豆国の檜皮師与次郎、鎌倉に到着する、快元僧都記、天文十二年癸卯、(一五四三)、三月十五日、大宮大明神の遷宮が行われる、棟札銘写、九月七日、北条家、長浜を検地する、北条家検地帳案、九月十五日、北条家、長浜検地書出を代官・百姓中に与える、北条家検地書出、天文十三年甲辰、(一五四四)、九月十五日、北条家、長浜の棟別取帳を作成する、北条家棟別取帳案、天文十四年乙巳、(一五四五)、二月十四日、宗牧、三島から熱海を経由して相模に入る、東国紀行、六月二十五日、北条家、長浜代官・百姓中に棟別銭の納入を命ずる、北条家朱印状、天文十五年丙午、(一五四六)、九月十九日、北条家、願成就院大御堂の上葺のため、伊豆国中に棟別勧進を命ずる、北条家朱印状、天文十六年丁未、(一五四七)、この年、来宮神社の社殿が造立される、棟札銘、天文十九年庚戌、(一五五〇)、四月一日、北条家、牧之郷・長浜の百姓中に、公事賦課の法を改め、 その中に韮山城の米銭がみえる、北条家朱印状、天文二十一年壬子、(一五五二)、九月三十日、田方郡大平明神社が造立される、棟札銘写、十一月十五日、狩野庄松瀬村笠離大明神の社殿が修造される、棟札銘、このころ作成された北条氏家臣の名簿に伊豆衆二十家がみえる、小田原旧記、天文二十二年癸丑、(一五五三)、三月三十日、大村家盛ら、武蔵国池上本門寺等参詣のため、三島から伊東に至る、参詣道中日記、弘治元年乙卯、(一五五五)、天文二十四年十月二十三日改元、十一月十六日、神余中島の大工高無善左衛門、狩野荘月ヶ瀬村聖宮大明神の社殿の造営にあたる、棟札銘、永禄元年戊午、(一五五八)、弘治四年二月二十八日改元、二月二十七日、北条家、長岡の七郎右衛門に、公方皮の納入について指示する、北条家朱印状、 三月二十一日、北条氏康の妹山木大方、滝山への韮山城普請人足役の停止を求める、山木大方朱印状、永禄二年己未、(一五五九)、二月十二日、北条家、家臣の役帳を作成し、その内に大野・下畑・吉田・神益の地名がみえる、小田原北条家分限帳、十一月十六日、北条家、願成就院大御堂上葺のため、本願十穀に勧進を認める、北条家朱印状、永禄三年庚申、(一五六〇)、九月二十四日、田方郡柿木魂神社の神体が造立される、棟札銘、永禄四年辛酉、(一五六一)、三月十八日、北条家、伊勢廻船・問屋中に、兵糧の替えを韮山で受取るよう命ずる、北条家朱印状、永禄七年甲子、(一五六四)、正月四日、北条氏康、西原氏らに下総国市川への出陣を求める、北条氏康書状、八月四日、上杉輝虎、大館晴光への書状で、北条氏康が足利晴氏・藤氏父子を伊豆奥に押籠め殺害したことを記す、上杉輝虎書状写、永禄九年丙寅、(一五六六)、五月十五日、北条氏康、狩野牧百姓に、正木棟別銭を麦と精銭で納めるよう指示する、北条氏康朱印状、閏八月六日、北条氏康、田中に欠落ちした西浦重洲の百姓の召返しを命ずる、北条氏康朱印状、永禄十年丁卯、(一五六七)、五月十六日、北条家、小田原城に橋を架けるため、伊豆の番匠を召し寄せる、北条家朱印状写、十一月二十一日、北条氏康、 長岡の七郎右衛門と孫九郎に、燻皮について指示する、北条氏康朱印状、永禄十一年戊辰、(一五六八)、四月十日、北条家、伊勢東海船乗組当番衆に、網代などからの不参過料徴収を命ずる、北条家朱印状案、六月六日、北条氏康、江間の八郎左衛門に、番鍛冶の定めの改訂を伝える、北条氏康朱印状、六月十七日、北条氏康、江間の八郎左衛門に、釘等の製造を命ずる、北条氏康朱印状、永禄十二年己巳、(一五六九)、四月二十四日、北条氏規、岡本善左衛門尉に、多賀郷の代官・百姓に貸し付けた兵糧の返済を求める、北条氏規朱印状、七月二日、武田信玄、玉井石見守に、北条における勝利と、大宮城主富士信忠の降伏を伝える、武田晴信書状写、十月十六日、北条氏政、由良成繁らに、伊豆・駿河諸城の防備などについて伝える、 北条氏政書状、十一月二十四日、北条氏康、山吉豊守への書状で、北条氏規・氏忠を韮山城に移したことを伝える、北条氏康書状、十一月二十九日、北条氏政、上杉輝虎に蜜柑と江川酒を贈る、北条氏政書状、元亀元年庚午、(一五七〇)、永禄十三年四月二十三日改元、四月十四日、武田信玄、春日虎綱に、伊豆に侵攻する意向を伝える、武田晴信書状写、四月十九日、北条氏康、上杉輝虎に、武田軍の伊豆侵攻の近いことを報せ、支援を要請する、北条氏康書状、五月二十二日、北条氏忠、西原砦における西原源太の忠節を賞する、北条氏忠感状、六月二十七日、武田信玄、太田資正に、伊豆国中を撃砕したと伝える、武田晴信書状写、八月四日、北条氏政、山吉豊守に、武田信玄の伊豆侵攻を伝え、支援を求める、北条氏政書状、 八月十二日、北条氏政、北条高広に、韮山城・興国寺城の戦況を伝え、上杉輝虎の支援を要請する、北条氏政書状、八月十二日、山角康定、北条高広に、韮山城攻防戦の様子を伝え、上杉氏の出兵を促す、山角康定書状、八月十三日、大石芳綱、山吉豊守への書状で、武田信玄の韮山攻めの様子にふれる、大石芳綱書状、九月十七日、韮山城の北条氏規、山本家次に、武田軍との合戦の様子を伝える、北条氏規書状写、元亀二年辛未、(一五七一)、正月十一日、北条氏政、三島社に、深沢城で勝利を収めたら、社殿などの造営をおこなうことを約束する、北条氏政判物、元亀三年壬申、(一五七二)、十月五日、北条家、仁田・奈古屋・中条・山木に人夫役を命ずる、北条家朱印状、天正元年癸酉、(一五七三)、元亀四年七月二十八日改元、三月六日、北条家、駿東郡八幡郷より田中に逃亡したいぬ親子三人の召返しを命ずる、北条家朱印状、天正二年甲戌、(一五七四)、七月十日、北条家、武田家の朱印の見本を、江梨の鈴木丹後に送る、北条家朱印状、十一月二日、岩徳高神社の社殿が造立される、棟札銘、天正三年乙亥、(一五七五)、二月十五日、北条家、那賀郷与三左衛門・同又二郎に、韮山城へ竹を進上させる、北条家朱印状写、三月二日、北条氏政、松田新六郎を笠原千松の後見役とし、伊豆郡代に任ずる、北条氏政判物、天正四年丙子、(一五七六)、七月二十九日、北条氏忠、田中山での薪取りを富永衆に許可する、佐野氏忠証文、天正六年戊寅、(一五七八)、七月二十日、北条家、長岡の孫九郎に、板目皮五枚の納入を厳命する、北条家朱印状、天正七年己卯、(一五七九)、二月二十四日、北条氏政、清水康英に、韮山城の防備を固めることなどを伝える、北条氏政書状、九月三日、北条氏政、千葉邦胤に、武田氏が沼津に築城したことに対して、伊豆国の防備を固めることを伝える、北条氏政書状、九月十七日、武田勝頼、安中七郎三郎に、北条氏政の三島出陣を伝える、武田勝頼書状、十月八日、武田勝頼、太田資正・梶原政景に、伊豆・駿河の戦況を伝える、武田勝頼書状写、十一月七日、北条家、安藤良整の代官と木負の百姓中に、 長浜での船掛場普請人足の供出を命ずる、北条家朱印状写、十一月九日、北条家、三島鋳物師屋に、伊東で鉄を鋳造することを命ずる、北条家朱印状写、十二月十五日、武田勝頼、結城晴朝に、伊豆より甲斐に引き上げたことを伝える、武田勝頼書状、十二月十九日、北条氏光、長浜城に梶原景宗を配置するため、植松佐渡守に人夫を出すよう命ずる、北条氏光朱印状、天正八年庚辰、(一五八〇)、二月二十五日、北条家、武田家との抗争に備え、田方郡各郷村支配につき法を定める、北条家朱印状、閏三月二十二日、北条家、小田原より韮山に至る宿々に伝馬を出させる、北条家伝馬手形写、四月九日、田方郡大平明神社が修造される、棟札写、 四月二十五日、武田勝頼、伊豆浦での北条水軍との合戦における小浜景隆・向井兵庫助の戦功を賞する、武田勝頼感状、武田勝頼感状写、七月二十日、北条氏直、武田軍が駿河・伊豆に侵攻すると聞き、荒川善左衛門尉に参陣を命ずる、北条氏直書状写、八月三日、北条家、井田さなぎ山に、敵船出現の際の狼煙の揚げ方を指示する、北条家朱印状、八月十一日、武田勝頼、戸倉における中牧勘十郎の戦功を賞する、武田勝頼感状、天正九年辛巳、(一五八一)、四月七日、武田勝頼、久料津の海戦における小浜景降・小野田筑後守の戦功を賞する、武田勝頼感状、四月八日、武田勝頼、久料津の海戦における向井兵庫助・伊丹権太夫の戦功を賞する、武田勝頼感状写、五月十五日、清水康英、山本正次に、賀茂郡田子浦で武田水軍を破った戦功を、北条家に注進したことを伝える、清水康英書状写、六月十九日、武田勝頼、賀茂郡子浦における小浜景隆の戦功を賞する、武田勝頼感状、八月十五日、北条家、木村某に、三島宿中の者を召し連れて、湯本からの箱根路整備を命ずる、北条家朱印状写、九月十七日、北条家、河原谷・金谷・三島の鋳物師に、長久保城での製鉄を命ずる、北条家朱印状写、十一月八日、松田憲秀、相馬治胤に、武田軍の伊豆侵攻を伝える、松田憲秀書状写、十二月四日、武田勝頼、佐竹義重に、北条氏政の伊豆出陣を伝え、武蔵・上野両国への出陣を求める、武田勝頼書状、十二月十日、北条家、玉川における宇野某の戦功を賞する、北条家朱印状、十二月二十六日、武田勝頼、上杉景勝に、伊豆国より甲府に帰ったことを伝える、武田勝頼書状、天正十一年癸未、(一五八三)、七月十一日、北条家、小田原から浮橋までの宿に、伝馬を出させる、北条家伝馬手形写、天正十二年甲申、(一五八四)、四月六日、北条氏規、北条氏が徳川家康に加勢することを、朝比奈秦勝に伝える、北条氏規書状、七月二十六日、北条氏規、酒井忠次に東国の戦況を伝え、羽柴秀吉との対戦状況について尋ねる、北条氏規書状、天正十三年乙酉、(一五八五)、三月七日、北条家、桑原の百姓に、韮山城普請のための人足を出させる、北条家朱印状、七月二十五日、北条家、長岡の皮作り九郎右衛門に、板目皮の納入を命ずる、 北条家朱印状、閏八月六日、北条家、西浦に帰る番匠のため、小田原から西土肥までの宿に、伝馬を出させる、北条家伝馬手形写、天正十四年丙戌、(一五八六)、二月三日、北条家、桑原の百姓中に、韮山城普請の人足を出させる、北条家朱印状、天正十五年丁亥、(一五八七)、十月十七日、北条家、重須・江間の百姓らに、増反銭を韮山城に納めるよう命ずる、北条家朱印状、十月二十七日、北条家、山本正次に、蔵屋敷造営のため、伊豆国奥・中の役銭なとを免除し、人足の手当てを許可する、北条家朱印状写、十一月八日、北条家、桑原の百姓中に、山中城普請のための人足を出させる、北条家朱印状、 天正十六年戊子、(一五八八)、正月十四日、北条家、塚本・桑原の百姓中に、山中城普請のための人足を出させる、北条家朱印状、この年、北条氏直、清水康英を下田城主とする、北条氏直判物写、天正十七年己丑、(一五八九)、十一月二十七日、徳川家康、駿府から三島までの宿中に、伝馬を出させる、徳川家康伝馬手形、十二月八日、北条家、梅縄の百姓中に、山中城普請のための人足を出させる、北条家朱印状写、十二月九日、北条氏規、駿府の徳川家康に、豊臣秀吉への取成しを依頼する、北条氏規書状写、十二月十九日、北条家、大藤与七に、韮山城籠城の支度を命ずる、北条家朱印状、十二月十九日、北条氏政、同氏規に、韮山城の普請等について指示する、北条氏政書状写、十二月二十八日、北条家、相良左京進に、吉田郷について指示する、北条家朱印状写、天正十八年庚寅、(一五九〇)、正月四日、韮山城の北条氏規、海老名五郎右衛門に、合戦の準備をして小田原城に入るよう命ずる、北条氏規朱印状写、正月五日、韮山城の北条氏規、岡本善左衛門尉に、合戦の準備をして相模国三崎・小田原城に移るよう命ずる、北条氏規朱印状、正月九日、北条氏直、高橋郷左衛門尉に、下田城への検使を命ずる、北条氏直判物、正月二十一日、北条氏政、韮山城の同氏規に、同城の矢普請につき詰問する、北条氏政書状、二月十日、北条氏直、村田新左衛門に、下田城での奉公を賞する、北条氏直判物写、二月十七日、北条家、東浦の笠原康明の同心仁杉伊賀守・白井加賀守に、弓・鑓・旗などを準備させる、北条家朱印状写、二月二十八日、北条氏政、韮山城の北条氏規に、水軍の配置などについて指示する、北条氏政書状、三月五日、北条氏直、三島における郎の戦功を賞する、北条氏直感状、三月六日、北条氏直、黄瀬川における大藤与七の戦功を賞する、北条氏直感状、三月六日、豊臣秀吉、同秀次に、伊豆国の浦々で放火し北条勢を獅子浜城に退散させたことに同意する、豊臣秀吉朱印状写、三月八日、豊臣秀次、真田信幸に、黄瀬川に在陣していることを伝える、豊臣秀次書状、三月八日、徳川勢に、韮山に砦を築くという触れが回る、家忠日記、三月九日、北条氏政、上野国沼田城の猪俣邦憲に、駿豆国境付近の豊臣軍の動静を伝える、 北条氏政書状、三月十日、北条氏政、韮山城の同氏規に、韮山城・長浜城の番帳を遣わしたことなどを伝える、北条氏政書状、三月十日、豊臣軍の黄瀬川付近に布陣した様子が絵図に描かれ、韮山城・山中城がみえる、小田原陣之時黄瀬川陣取図、小田原陣ノ時海道筋諸城守衛図、三月十七日、北条氏直、平井台における小川靭負尉の戦功を賞する、北条氏直感状、三月十九日、山中城の松田康長、箱根別当に、豊臣軍の様子などを伝える、松田康長書状、三月二十一日、山中城の松田康長、箱根別当に、山中城の様子や豊臣軍の動静を伝える、松田康長書状、 三月二十三日、北条氏直、仁田における宇津木氏久の戦功を賞する、北条氏直感状、三月二十五日、北条家、相模国千津島の住人に、韮山から小田原まで江川酒の酒樽を運ばせる、北条家朱印状、三月二十九日、北条氏直、巌殿における小関加兵衛と村田久兵衛の戦功を賞する、北条氏直感状、北条氏直感状写、三月二十九日、豊臣秀次の軍勢が、山中城を攻め落とす、家忠日記、三月二十九日、豊臣秀吉、鍋島直茂に、山中城の落城を伝える、豊臣秀吉朱印状、山中城取巻人数書立、四月四日、山中長俊、田代郷地下人中に、還住を命ずる、山中長俊判物、四月四日、豊臣秀吉、本願寺顕如に、山中城を攻め落とし、韮山城を包囲したことなどを伝える、豊臣秀吉書状写、四月五日、豊臣家家臣蒔田久勝ら、大坂城御留守居衆に、韮山城・山中城の戦況を伝える、蒔田久勝等連署書状、四月七日、豊臣秀吉、鍋島直茂に、韮山城包囲の様子を伝える、豊臣秀吉朱印状、小田原城・韮山城取巻人数書立、韮山城取巻人数書立、小田原陣之時韮山城仕寄陣取図、四月八日、豊臣秀吉、加藤清正に、山中城の落城と韮山城包囲の様子を伝える、豊臣秀吉朱印状写、四月十六日、浅野長吉の家臣ら、大川兵庫らに、西浦・江梨のおあみ年賞を徴収させる、杉新平・大北源三郎連署状写、四月十七日、北条氏直、松田直長に、山中城で討死した父康長の遺跡を安堵する、北条氏直判物写、四月十八日、浅野長吉の家臣ら、福井兵部に、修善寺における条規を与える、杉新平・大北源三郎連署状写、四月二十三日、本多政信、星屋修理に、伊豆国が徳川家康に与えられたことを伝える、本多政信書状、四月二十九日、豊臣秀吉、清見寺の鐘を、韮山城攻撃のため借用する、豊臣秀吉朱印状、四月、織田信雄、宇佐美郷に禁制を下す、織田信雄禁制、四月、豊臣秀吉、大仁村・三福村に掟書を下す、豊臣秀吉掟書、四月、豊臣秀吉、三島社に条規を下す、豊臣秀吉掟書、五月一日、豊臣秀吉、修禅寺に、修造と門前百姓の還住を命ずる、豊臣秀吉朱印状、五月二日、浅野長吉、大川兵庫・同隼人に、三津七郷の魚年貢を徴収させる、浅野長吉判物写、五月六日、豊臣秀吉、筑紫広門に、韮山城包囲の様子を伝える、豊臣秀吉朱印状、五月七日、豊臣家の杉原長房、大川兵庫・同隼人に、西浦での成物納入を命ずる、杉原長房判物、 五月十一日、豊臣家の山中長俊、田代郷地下人中に、作毛苅取りの訴えにつき指示を与える、山中長俊判物、六月二日、豊臣秀吉、韮山城における福島正則の戦功を賞する、豊臣秀吉朱印状写、六月五日、細川藤孝、中院通勝に、韮山城攻めの戦況などを伝える、細川藤孝書状写、六月七日、豊臣秀吉、加藤清正に、韮山城攻めなどの戦況を伝える、豊臣秀吉朱印状写、六月七日、徳川家康、韮山城の北条氏規に出城を促す、徳川家康書状写、六月十三日、豊臣秀吉、黒田長政に、韮山城包囲の様子など戦況を伝える、豊臣秀吉朱印状写、 六月、榊原康政、加藤清正に、山中城・下田城の落城や韮山城の包囲など戦況を伝える、榊原康政書状写、小田原陣仕寄陣取図、七月四日、一柳可遊、浅野長吉に、韮山城が落城して籠城していた北条勢が小田原の陣所に移されたことを伝える、一柳可遊書状、家忠日記増補追加、北条家人数覚書、関東八州諸城覚書、七月十三日、豊臣秀吉、小田原城に入城し、徳川家康に伊豆国など関東諸国を与える、家忠日記増補追加、大かうさまくんきのうち、七月十七日、北条氏直、韮山籠城を賞して、大藤与七に進退の自由を認める、北条氏直朱印状



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