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書誌情報サマリ

書名

焼津水産史 下巻     

出版者 焼津魚仲買人水産加工業協同組合
出版年月 1985.1


書誌詳細

この資料の書誌詳細情報です。

タイトル番号 1005010211977
書誌種別 地域資料
書名 焼津水産史 下巻     
書名ヨミ ヤイズ スイサンシ   
出版者 焼津魚仲買人水産加工業協同組合
出版地 焼津
出版年月 1985.1
ページ数 1119p
大きさ 22cm
言語区分 日本語
分類 S660
件名 水産業-静岡県-歴史 焼津市
目次 第三編、戦争と敗戦そして戦後の混乱の中で苦闘する、はじめに、第一章、日中戦争の開始と統制経済の実施、一、一時の戦時景気に浜は活況を呈す、日中戦争の開始とともに戦時体制着々と進む、続々と召集令が下り鯖漁船にも相次ぎ徴傭令、出征兵士の武運長久祈願と慰問に水産会多忙、豊漁と軍事景気で焼津は一瞬の賑わいに酔う、日中戦争の開始がもたらした町民生活の変化、十八組の組長制実施と市場立ち入り帽子採用、会員の買高資格最低限度を徐々に引きあげる、駅舎西側に引き込み線と鮮魚専用ホーム新設、その後も尾を曳く口銭と戻り歩引き下げ問題、県の戻り歩減額指令を拒否し現状維持を決議、南北漁方へ六千円を寄付する事で円満に解決、戦争で再度計画の市場取り引き制度改革挫折、一瞬の光芒に終わった水産会のネオン広告塔、戦時体制の基本をなす「国家総動員法」公布、市焼津鰹節市場十周年を記念して全国市開催、戦時統制が進む中で同志・同業が最後の対立、戦争による物価高と豊漁で市場は掉尾の好況、二、戦時体制の強化と公定価格の決定、漁船の根こそぎ徴傭とその悲惨な結末の記録、統制経済最初の障害は魚出荷木箱用の釘不足、昭和十四年九月ストップ令で物価高騰を規制、業務を通して低物価政策に協力するとの決議、鮮魚・加工品の最高販売価格(公定価格)決定、製造原価を全く無視した塩鯖・生利公定価格、焼津を震撼させた糀漬鯖の公定価格違反事件、総会で水産業新体制樹立に邁進する事を決議、魚商人に対する戻り歩全廃を求める県の指令、時流に抗し得ず戻り歩全廃を従順に受け入れ、築港地元負担金拠出と水産会の負担割り当て、三、魚の配給制で市場も仲買人も消滅、全漁連の思惑と消費地市場の仲買人制度廃止、〇三市場を漁協に譲渡し東と生を統合新会社に、市場の魚が減少し木札による抽籖配給を実施、急坂を転落するように焼津港が衰微した理由、便利な言葉は新体制勝手な時に使います、鮮魚介出荷統制組合を設置し個人営業は禁止、生産・市場・出荷加工を一元化した統制組合、魚質鮮度を判別する仲買機能を無視した統制、水産会員は出荷統制組合員となり仲買人消滅、市場は配給場となり開市を告げる鈴振り廃止、口銭を大幅に引き下げても水揚げは回復せず、大漁祈願も空しく焼津港の水揚げ六分の一に、焼津を中心とする鰹角煮業者が工業組合設立、統制強化により佃煮業会を一元化した組合へ、蒲鉾業者も工業組合を設立して加工原料確保、戦争激化とともに生産減退し半数が転廃業へ、第二章、太平洋戦争開始から敗戦に至る受難の時代、一、水産会の解散と五団体の消長、開戦から敗戦への過程と民間産業の改廃統合、漁船は八割が徴傭され燃料油は必要量の二割、主要財源の会員寄付を失い形骸化した水産会、戦時統制下で存続するため水産会定款を変更、新体制に対応し焼津水産協同配給組合を設立、班ごとの共同作業で水産業新体制を推進する、県下の缶詰会社を一本化して「県缶」を設立、 東会社と生組合の企業合同に知事が乗り出す、時代の流れに抗しきれず退陣した片山七兵衛、漸く両者が合同して昭和漁業株式会社を設立、〇三会社魚市場を漁協へ譲渡すべしと県が指導、会社の消極的抵抗で市場権の譲渡に手間どる、市場権の譲渡を受け漁協が共同販売所を開設、焼津漁業会が設立され水産会員の八割が加入、戦局急迫の中万感の思いをこめ水産会を解散、二、戦争末期の焼津の町と魚商人の生活、〇三会社を中心とした大規模なやみの摘発、漁業者から各地販売所まで千二百人取り調べ、築港事務所員は港を作らずに藷をつくる、二十年七月には焼津の町も再三空襲を受ける、空襲で漁獲途絶え焼津神社の祭りも中止する、戦火に焼死するとも蒲鉾業者たるを誉れとす、戦時下苦難の生きざまを記した一魚商人の歌、三、壮大なるロマン・皇道産業焼津践団、焼津が全国に呼びかけ鰹節の自粛価格を制定、鰹節卸商組合を設立し水産業の新体制を計画、皇道産業践団を設立した村松正之助の指導力、鰹節業者の企業合同を目指す鰹節生産会社、南進報国会を結成して南方分村の母体とする、周到な南進計画を立て隊員の錬成を開始する、皇道産業焼津営団が皇道産業焼津践団へ発展、拓南部・海運部等も置く皇道産業本社の陣容、南方開発金庫から総額一千二百万円を借りる、日水・林兼など大手水産会社の南方進出状況、十七年四月最初の先遺隊員がセレベスへ進出、ボルネオ・ルソンへ先遺隊が無許可渡航する、歓呼の声を背に南方派遣本隊が焼津港を出発、第一次-四次で六百余名の団員を南方へ送る、パラウイ島に基地を建設し「焼津島」と命名、フィリピン派遣団の全員に現地召集令が下る、軍の要請で北ボルネオ一帯に団員を分散配置、沿岸一帯に及ぶ魚の集荷供給機関として活動、南方に郷土一家を建設する夢と意気込み、現地司政庁から託されたゴム靴三万足を運ぶ、ベトナムの沿岸で沈没した二隻の南方交易船、幸運にも最後の団員を無事運んだボルネオ丸、全員召集され半数が戦死したフィリピン団員、ボルネオ派遣団員の犠牲者八十一名に達する、団員犠牲者の霊を合祀する「郷魂祠」の造営、同志によって今もなお営み続く郷魂祠の例祭、第三章戦後の混乱の中に新秩序の芽生え、一、魚商人の生活と八月十五日前後、眩めく烈日下終戦の詔勅玉音放送を聞く、八月十五日を中心とした水産業者の生活、二、統制の裏を行くやみ全盛時代の焼津、敗戦後の焼津港は帰還船等十八隻が残るのみ、資材難を排して逞しく出漁を再開した漁業者、生産地の漁獲力低下と消費地の極端な魚不足、やみ物資の売買が公然化した戦後の世相、生きて行くため一億総やみ屋という時代、県水産業会で思い切った自主価格を実施する、終戦後間もなく短期間魚の統制が撤廃される、魚価急騰を一攫万金の漁夫の利と皮肉る、再統制後買い出しに群がるカンカラ部隊、敗戦直後苦しみ喘ぐ庶民のたけのこ生活、やみの取り締り次第に魚の生産地に及ぶ、 占領軍々政部が魚の取り締りに直接乗り出す、水産商工業協組傘下会一員が自粛誓約書を提出、自治体警察署長が逮捕された焼津生利節事件、署長は起訴猶予となり竜頭蛇尾のまま終熔へ、事件の摘発が進む途中生利節統制解除となる、三、部分的な魚及び加工品の統制解除が始まる、先ず高級魚と鰹節など一部加工品の統制解除、二十四年十月から水産加工品がほぼ統制解除、戦後の復興が兆す中で漁業生産も次第に増加、漁船建造が進み二十四年にはほぼ戦前並みに、先ず鯖漁業が復興し続いて鰹鮪漁船の建造へ、資材不足と不漁を嘆く統制時代の魚市場概況、四、水産会に代わる組織水産商工業協同組合を設立する、業界再建を目指し二十一年水産業組合を設立、水産業組合が焼津水産商工業協同組合へ発展、水産商工業協組で全県的な荷受け機関を計画、県で荷受組合を設置するが県外品集荷進まず、乏しい焼津港の魚委託加工が組合唯一の事業、新水産商工業協組に寄付金の要請が殺到する、一向に増えない水揚げ量に強い焦燥感を抱く、水産商工業協組で魚市場を開設する運動開始、漁業会の反発にあい水産業者の足並み乱れる、複数市場計画挫折し少壮組合執行部引責辞職、同じ頃三崎港では魚問屋が出荷会社をおこす、『塩沢日記』で辿る水産業界戦後復興の歩み、統制の下で苦悩しつつ復興を目指す佃煮業界、五、戦後相次いで新発足した業種別組合、発足以来任意組合の形を継承する鮮魚商組合、加工組合・鰹節組合とも終戦の翌年に新発足、外貨獲得のため早々操業を開始した缶詰工場、二十四年頃から活躍した輸出鮪買い付け業者、統制中は町内七配給所に統合された小売り店、戦後の一時好況を迎え組合員急増の佃煮業界、戦争末期匿名組合とした蒲鉾組合を復活再建、有志で「魚組」を結成し県外品の入荷を促進、六、皇道産業の終焉と富士水産となった〇三会社、日本再建のため生産文化運動を提唱する、野草の食糧化をはかり電火焼き製造販売、多数の団員を失った懊悩が正之助をさいなむ、興国(皇道)産業から分離独立して行く人々、新会社焼津践団に衣更えし戦時債務を棚上げ、正之助は死去・各漁船も独立し終需を迎える、正之助に多額の信用借しした生信用組合、践団解散後も尾を曳いた南発借入金処理問題、魚市場権を譲渡して水産工業となった〇三会社、終戦直後富士水産と改め直営鰹船六隻を建造、七、築港の促進と終戦直後の町の表情、戦争終結とともに再び起こった築港促進の声、漁港完遂促進会を設け凌諜拾の購入費を寄付、固の直轄事業として一気に促進する事を陳情、衆議院で諸原採択され県も一強力促進に努める、一気に掘り進むポンプ式浚渫船の怪力に睦巨匠見返り資金獲得に成功し築港事業一気に進む、着々進む工事を驚きかつ喜びつつ見守る人々、見返り資金獲得に奔走した町長・清水兵一郎、終戦直後占領軍司令部漁業部長の大歓迎集会区天皇・戦争の痛手に未だ呻吟する焼津の浜へ、 敗戦直後の文芸誌『生産郷』と来焼作家たち、戦後の文化団体と華々しく活動した文化協会、戦後の総選挙と焼津最初の代議士・加藤静雄、自由経済の下で発展を遂げる焼津水産業、はじめに、第一章、統制撤廃によって蘇生した焼津港、一、新魚市場設立運動と魚市場協定の成立、統制撤廃に当たり市場のあり方で見解が対立、漁協組で仲買人の保証金を十万円と決定する、四月一日を迎えても市場が関かれない焼津港、四月四日市場のあり方を一示す三者会議の提言、保証金五万円とブロック制の連帯保証を決定、血の滲む苦心の末保証金を調達して市場再開、統制が撤廃されて金は動くが健中は寒い、旺盛な買い付けで水場げ一気に増加し始める、水産商工業協組が奨励金千分の五を要請する、漁協組の拒否回答で水産業者との対立深まる、共同経営の提案が拒否され新市場設立を計画、水魚市場開設申請書を提出市の副申を求める、市議会十二対九で新市場開設申請に賛成する、陸魚市場の事業計画書及び市と交した契約書、政治的思惑の中で進められた新市場開設運動、斉藤派に敗れ無念知事立候補を辞退する小林、小林知事と水産業者を結びつけた「片山七兵衛」、漁業者が圧勝し水産業者が低迷した市会選挙、頽勢を立てなおすべく「海野数馬」に助力を懇請、両者の調停役を買って出た「高見三郎」県副知事、共同経営の精神に則る魚市場協定の成立、協定書の趣旨は当初からの願いと「村松直治郎」、焼津港が将来へ発展する基礎となった協定書、ニ、新発足した水産商工業協同組合の活動、中小企業等協同組合法による組合へと新発足、組合内に出荷部を設け鉄道輸送改善を進める、二十五年十月の時刻改正で大いに便利となる、列車遅延で腐敗した生利節の賠償獲得に成功、冨山積する問題を次々改善して円滑化をはかる、二年間で二倍近くにもなった水産物の出荷量、主要市場荷受会社との聞で出荷奨励金を復活毘血まみれの姿のまま西に東に飛び出して行く日通自動三輪車詳と新発足した地元運送会社水産クラブを開設して鉄道関係者を接待水産商工業組で製函事業開始・後加工組合へ、京都へ組合出張所を設置し市況を連絡させる、出荷量の急増に伴い駅東側に鮮魚ホーム建設、着々港の整備が進み年ごと活況を増す魚市場、試行錯誤を繰り返しつつ市場の新秩序を確立、三、舷々相摩す築港と活気湿る焼津の町、国港一気に進み二十五年秋には大型船が入港、焼津港で最初に魚問屋を始めたいちまる、全国行脚して焼津入港を説き毎日通信を送る、各魚問屋が競いあい焼津へ外地船を誘致する、活き活きと八雲生誕百年祭を祝う焼津の人々、人口三万人に達し二十六年、三月単独市制施行、三月に市制祝賀式・六月に築港進捗の記念式、とんぼ鮪末曽有の大豊漁に港は湧き返る、四、仲買人組合の発足と市場運営を繞る対立、協定書に基づき魚市場運営委員会を設置する、昭和二十六年十一月二十五日仲買人組合発足、 出発早々から呼吸が合わぬ魚市場運営委員会、出発当初は弁勘定的な仲買人への奨励金、二十五年度奨励金は五十万円のお包み金、市場運営委員会で双方の決定的な対立が発生、関係者の努力で運営委員会が一時再開される、仲買人組合が市場関係の業務を全面的に担当、奨励金を制度化する仲買人取引内規案を作成、仲買人組合の取引内規案実現を見るに至らず、水産商工業協組総会で魚市場の設立を決議、⑧市場設立決議で水産業者の強い態度を示す、服部亀吉を仲介役として両者の和解をはかる、徳竜丸ビキニ被災事件で市場問題は吹き飛ぶ、ビキニ対策の合聞に奨励金問題あっさり処理、仲買人組合長岩本弥作から服部友吉へと交替、協調の気運醸成され魚市場協定書更新の調印、協定書の更新と併せて仲買人取引内規を制定、両者平等の理念に立つ新市場運営委員会規約各組合へ業務を分轄委譲する水産商工業協組、象徴的団体となった組合の存廃を役員に向う、なお当分の間水産商工業協組の存続が決まる、五、活気と波澗が交錯しつつ発展する町と港、港周辺区画整理保留地を大洋漁業会社に売却、大洋誘致に漁協が強く反発し市長窮地に立つ、予想を覆し大洋漁業誘致の高富が市長に当選、漁協の信頼篤い斉藤市長の実現で紛争が解決、二十六年村営事業として着工された小川漁港、独立を前に漁区制限マツカーサーライン撤廃、大型一専用船が開発され遠洋鮪漁業が勃興する、焼津港最初の大型鮪専用船十五太洋丸の成功、築港工事が進み東洋一の魚市場上屋完成、櫛垣堤を出して危険が迫った堤防を保護する、港に咲いた徒花特飲街の繁栄とその消滅、六、福竜丸事件と水産業者の受けた打撃、焼津港の歴史に深く暗い傷痕、第五福竜丸事件、福竜丸がビキニで死の灰を浴びた当時の状況、原爆鮪さわぎで焼津は混乱の極に達する、久保山無線長の死を経て事件終息熄に至る経過、福竜丸の魚はまたたく聞に十四都府県へ出荷、出荷先を調べて原爆鮪の売り止めを緊急連絡、消費者の不安更に深まり魚価は下落を続ける、仲買人組合等で損害補償を求める陳情書提出、焼津水産業者の被害要求額は二億四千百万円、累卵の危機に喘ぐ水産業者が融資を要請、各地各業界から損害補償を求める声たかまる、東京・大阪等の中央卸売市場も開店休業状態、慰謝料二百万ドルで日米合意に強い不満の声、仲買人が買い付けた後廃棄した魚は補償せず、焼津水産業者への補償金は要求額の二%余り、放射能検査中止されビキニ事件終熄へ向かう、焼津から来たがと称して旅館を追われる、焼津の人々の上を吹き抜けていった平和運動、第十二章、経済成長期を背景に躍進する焼津港、一、漁協と提携して魚市場の新秩序を確立、高度成長時代当初の三十年は魚価不振に泣く、景気悪く仲買人も魚市場も資金繰りは火の車、三十一年から着実な発展始まり水揚げ百億へ、ビキニ処理で大幅に遅れた仲買人組合の総会、安定した市場取り引き確立を新執行部に託す、 仲買人の資格を整え取り引き近代化をはかる、団体助成金が確定し仲買人組合の基礎固まる、両者の協調によって再開された魚市場運営委、外地船誘致と水揚げ金即時支払いを求める声、三十年頃には早くも船凍品の直接売買始まる、築港負担金の市場会計支出でその責任を分担、年々増大する水場げを背景とした両者の協調、奨励金の一部積み立て買い付け代金保証金に、本人・ブロック・組合が各三分の一保証分担消費地市場に習い焼津市場も次第に週休、制へ、市場の取り引き単位が貫目からキロに変わる、魚価が高騰しキロ単位を十キロ単位に改める、水産商工業協組を業種別単位組合の連合会へ、水産会の発足を待って水産商工業協組を解散、親睦旅行など進めながら社団法人認可を待つ、二、新しい時代への対応を進める各組合、生利節を鮮節とし鉄道運賃を軽減させる、災害で列車不通となる都度出荷組合役員奮闘、国鉄スト・電話の自動化・東海道線電化完成、水産物出荷増大で駅の限界を越えた作業続く、駅西鮮魚ホームの混乱を打開する努力重ねる、インド鮪登場で鮮魚業者は一挙に多忙となる、旺盛な鮮魚商の買い付け意欲で焼津港賑わう、冷蔵庫を建設し原料を一括購入する蒲鉾組合、三十年頃を境に製造工程機械化が一気に進む、関西のぐちから北海道のすけそうたらへ転換、戦後再発足した缶詰工業界と新興勢力の台頭、相次いで設立された地元資本の新缶詰工場群、倉荷証券倉庫の取得から新発足した鰹節組合、昭和三十四年以降相次いで組合冷蔵庫を建設、集散地よりも生産地として再興した鰹節業界、時代に即した簡易な鰹節の家庭削り器を開発、成型機を開発し鰹節仕上げ削り工程を機械化、続いて生鰹頭切り機と鰹節乾燥庫を研究開発、厳しい自由競争の時代を迎えた焼津佃煮業界、角煮の原料に鮪が利用され始め類似品も出る、時代の変化に合わせて佃煮の風味を工夫改良、小売り店舗改造は調理場を金網で囲う事から、小売組合の全員が店舗の全面改造に踏み切る、冷却機付ケース据え付け全国のモデル店舗に、施設組合-水産商工業協組加工部-加工組合、水産加工業協同組合を設立して積極的な活動、敷地及び工場を買収して組合製函事業を開始、清掃法の施行を受けて組合で肥料工場を経営、八日会が輸出鮪組合-輸出鮪買付組合へ発展、得意先を招待する懇親会が組合の恒例事業に、三、法定組合焼津魚仲買人水産加工業協組化と水産会館の建設、水揚げ額の増大に伴って保証限度額引き上げ、ブロック保証団解体個人と仲買人組合保証に、年ごとに増大する焼津港の水揚げと市場概況、魚仲買人組合と名称を改め事務所新築を決定、曲折の後焼津魚仲買人水産加工業協同組合に、昭和三十八年六月二十七日仲買人協組発足す、服部友吉組合長以下新発足の組合役員決まる、仲買人組合事務所・焼津水産会館建設を決定、昭和四十年一月早々水産業界待望の会館完成、関係者五百余名を招待して新会館竣工祝賀式、 会館竣工祝賀式の翌日組合長服部友吉死去す、鮪を買いに立つ迫力と和を尊重した人柄、四、混乱しつつ発展する町と港の拡充、周辺五カ町村を合併して市域が十倍に拡がる、四億の赤字を出して焼津市が財政再建団体に、集団赤痢発生で休業に追い込まれた水産業者、時代の変革に苦悩しつつも伝統を守る荒祭り、市民生活が向上し三十八年夏公益質屋を閉鎖、昭和三十二年以後一気に普及し始めたテレビ、期成同盟会を設け焼津駅の改築拡張をはかる、焼津市の中央部を貫いて東海道新幹線が走る、東名高速道路開通で水産物出荷に大きな影響、マリアナ海域で七隻二百余名悲惨な集団遭難、急速に増強された焼津港の製氷冷蔵冷凍施設、築港促進運動の継続と特定第三種漁港の指定、国の漁港整備計画に乗って順調に工事が進む、焼津・小川両港を一体にした新しい漁港計画、第三章、相次ぐ新事態に対応を求められる水産業界、一、冷凍流通の新時代と仲買人組合の対処、仲買人組合新組合長に服部虎吉が推薦される、和と団結のもと仲買人組合の発展を期す、南鮪の魚価高に支えられて激増する水揚げ額、遠洋鮪船と大手商社資本の一船売買が始まる、新技術の開発で鰹漁船も復興の兆しを見せる、最高保証限度引き上げに伴い団体助成金増額、仲買人組合で直営製氷冷蔵庫建設を計画する、遠洋鮪漁業の発展に伴う船内冷凍設備の進歩、漁獲した鮪をマイナス四十度以下で冷蔵する、物価高の中で魚の流通機構改善が求められる、十分な魚価安定の効を奏さなかった政府施策、昭和三十年代末に直接取り引きが顕在化、鮪船主が仲買人を排して消費市場へ直接出荷、当初は一船買いは何れ失敗すると強気の予測、東京市場荷受け会社の斡旋で一船売買が急増、水揚げ額が前年を下廻り問題が一挙に表面化、焼津港の持つ優位性ゆらぎ多様な論議起こる、二、必要に迫られ焼津港でも一船売買を開始、一船買いは失敗すると信じつつ不安が嵩まる、陸上の対応施設超低温冷蔵庫の建設が始まる、焼津港ではマルミ・カネトモが先駆け、なし崩し的に始まった焼津港の一船買い、東洋冷蔵を通し三菱商事が本格的な一船買い、韓国・台湾船等による鮪の輸入問題も起こる、自らの目を確信して商売にはげむ鮮魚商、流通機構改善の中で産地仲買不用論まで出る、昭和四十七年には南鮪のほとんどが一船買い、一船買いは商社の鮪買い占めだと社会問題に、水産庁で焼津・清水・三崎各港の実態を調査、商社の鮪買い占めが国会でも問題となる、過熱した日本経済全体がやがて壁にぶつかる、一船売買が進んだ昭和四十年代の魚市場概況、三、公害問題起こり水産業界懸命の努力、公害規制の始まりと水産加工排水の浄化問題、国の排水基準設定と厳しい本県の上乗せ規制、日量排水五十トン未満の加工場も規制の対象、適当な浄化装置もなく規制に戸惑う加工業者、公害防止推進委を設け業界へ優良機種を推奨、各加工場が相次いで排水浄化装置を導入する、 浄化装置の償却と維持費の重い負担に耐える、米国の規制が発端となった魚の水銀汚染問題、PCBと水銀の汚染問題が前後して発生する、厚生省が水銀の許容量と魚を食べる量を示す、厚生省のあいまいな指導方針に怒る水産業者、焼津の水産業者二百七十名が大挙して陳情に、厚生大臣を吊し上げて善処を要求する陳情団、安全宣言は出されたが業界の受けた傷は深刻、人工甘味料チクロ使用禁止で缶詰業界に打撃、煉製品の過酸化水素使用規制で違反者が出る、昭和五十五年過水使用禁止の危機を克服する、生利節業者も過水使用全面中止の措置を取る、四、水産物の出荷トラック輸送に転換・首都圏で産地直売実施、昭和二十年代後半からトラック利用が始まる、トラック会社の激しい競争が鉄道を追い抜く、出荷組合も徐々にトラック輸送へと移行する、鉄道輸送によって発展をはかった時代の終焉、水産物の出荷を全面的にトラック輸送へ転換、鉄道百周年を記念し感謝の碑を建立する、東京都で活発に始まった野菜や魚の産地直売、品川区の産地直売に仲買人組合が全面的協力、仲買人組合内に産直部を設けて積極的に対応、華々しく登場した産直も数年で次第に下火へ、仲買人組合内に事務局を置く県加工連の活動、五、水産物産地流通加工センター形成事業で一大加工団地を建設、水産物産地流通加工センター形成事業始まる、仲買人組合で水産加工団地の造成を計画する、適地が得られず仲買人組合自体の計画は断念、鰹節組合が事業主体となって用地を取得する、十八業者で協同組合水産加工センターを設立、五十億円を投じ年産三百億円の加工団地完成、仲買人組合で加工共同作業所建設を計画する、蒲鉾組合が補足整備事業で冷蔵庫を建設する、六、新卸売市場法施行と仲買人組合の対応、新卸売市場法の制定と積極的な県の行政指導、新魚市場業務規程実施で若干の対立が生ずる、新規買受人の同意を求める市場側に強く反発、仲買人組合の魚市場運営に関する要望四項目、要望項目に対し漁協が前向きの回答を寄せる、漁協側が同意を求めた新規買受人九社を了承、新規五者の承認問題が提起され四者のみ同意、その後八水・日鰹連の新規買受人加入に同意、魚市場業務規程の改訂申し入れに拒否の回答、代金支払い期間短縮や団体助成金の圧縮など、共同経営の精神に反するという強い意見、県が調停案(指導方針)を作成し両者に提示、不満は残るが已むを得ぬとして調停案を受諾、七、焼津新港と小川港外港の建設、第一・第二船渠が完成し焼津新港建設に着手、全国的な鰹巻き網漁船基地として賑わう新港、鮮魚の水揚げが盛んな小川港にも外港を建設、第五編、経済低成長期の焼津水産業と将来への展望、はじめに、第一章、石油危機以後苦悩深める漁業・水産業、一、混乱を生じた後定着した一船売買、石油危機以後厳しい冬の時代を迎える焼津港、燃油暴騰で大きな打撃を受けた遠洋鰹鮪漁業、二百海里規制に魚ばなれ現象が追い打ち、 水産業を取りまく環境が年を追って悪化する、直接契約者(非仲買人組合員)の比重が増加、仲買人の中でも買い付け額の上下格差が増大、急速に建設が進んだ冷凍鮪用の超低温冷蔵庫、石油危機直後急騰した鮪魚価の反動が現れる、鮪魚価の値上がりと大手商社の及ぼす影響力、魚市場を経由する一船売買の形式が定着する、思惑買いに走った大手等で蹉跌を生じた者も、大手による鮪買い占めが国会でも再び問題に、投機時代は去り一船買いは堅実第一の商売に、二、日鰹連の調整保管と外国船による輸入問題、鰹の魚価を支えるため日鰹速が調整保管事業、政府が実施基準を定めて調整保管を指導援助、調整保管事業を深刻に受けとめた仲買人組合、大型鰹船の建造で漁場が拡大し水揚げが増大、調整保管で五十二年夏の鰹魚価が異常に高騰、目鰹速の高く買った鰹が捌けず冷蔵庫は満杯、翌五十三年に入ると鰹魚価が急落しはじめる、四十日の一斉休漁を経て魚価漸く旧前に復す、外国船による鮪輸入が急増して漁業者を圧迫、漁業者の要望で漁港での外国船水揚げを禁止、焼津港への外国船水揚げを仲買人組合が陳情、時が経過する中で輸入鮪問題は自ずと鎮静化、一船売買の鮪が『倣然として宙に吊らるる』、石油危機以後現在に至る聞の焼津魚市場概況、三、海外まき網漁船の基地として脚光浴びる、急速に発展し注目をあつめる海外まき網漁業、福一丸が焼津に於ける海外まき網船の草分け、鰹魚価の低落で苦しい対応を迫られる漁業界、一本釣り鰹船五隻で海外まき網船一隻を許可、全国の海外まき網船が集中水揚げする焼津港、焼津港に群がる水産業者の旺盛な買い付け力、長年蓄積された焼津港の強大な総合力と機能、第二章、苦難の時代に水産業界の明日を拓く努力、一、多角的な活動を重ねる仲買人組合、仲買人組合で近海漁業の生船誘致運動を開始、魚市場も長年継続して外地船誘致に力を注ぐ、先ず伊豆方面の生船誘致を進め次には九州へ、焼津は遠洋鮪漁船だけの港という誤解をとく、全国各港を対象に積極的で永続的な誘致運動、組合運営に重要な役割を果たして来た総代会、県の指導で定款から総代に関する条項を削除、累積した仲買人組合加入希望者の問題を検討、慎重な資格審査の結果二十一名の加入を承認、海外まき網漁船協会から日曜休市の強い要望、とりあえず九-十一月の日曜休日試行を了承、仲買人組合主催で市民感謝デー即売会を開く、市民の要望に応えて以後毎年感謝デーを実施、市魚食普及協議会の設置と観光物産展の開催、水産会に研修会が設けられ野球大会など企画、水産会野球大会がソフトボール大会へと移行、以来十七回を重ねた水産会ソフトボール大会、語り草に残るほど盛大だった水産会大運動会、仲買人組合厚生部で行楽バス旅行を実施する、熱い血潮をたぎらせ高見・原田代議士を支特、仲買人組合二十五周年記念事業で沿革史編纂、大いなる意欲のもとに水産史の編纂を進める、 九年の歳月を経て焼津水産史上・下巻を完成、仲買人組合で三十周年記念北海道旅行を催す、二、トラック輸送時代と出荷組合の活動、トラック輸送時代を迎え出荷組合の役員交替、雪害でトラックが延着しその対策に奔走する、東名高速道日本坂卜ンネル大事故とその影響、出荷組合とトラック会社とで運賃契約を結ぶ、石油危機の際にはトラックの燃油確保に不安、毎年運賃を改訂するが昭和五十七年は見送る、消費市場の取り扱い料金協定も年々改訂する、先輩の苦闘の歩みを叙す『出荷の歩み』発刊、三、新時代への対応を進める各業種別組合、南鮪の増加とともに盛んになる鮮魚商の活躍、一船売買が進み一般鮮魚商は苦難の道を歩む、新たな活路を求め生船の誘致運動を推進する、さまざまな活動を重ねて業界の発展をはかる、蒲鉾原料が鮮魚から冷凍すり身へ大転換する、練製品業界を挙げて製造工程自動化を進める、消費者の嗜好変化に対応した製品開発に努力、団地化・協業化に備えて蒲鉾組合用地を確保、組合冷蔵庫及び蒲鉾組合事務所を郊外へ移転、三十周年を記念し『焼津蒲鉾史』を発刊する、加工組合が新拠点を求め製函工場を建設移転、旧製函工場を西友へ売却して新工場を増改築、白亜の組合事務所を建設して拠点整備を完了、厳しい加工排水の浄化規制と加工組合の対応、加工団地構想実現せず個々に浄化装置を設置、新しい時代への対応に努める塩鯖生利節業界、荷受け会社の奨めで鰹のたたき製造開始、好評で注文に応じきれず量産化に工夫こらす、焼津港の有力な水産加工品の地位を確立する、新時代に適応する努力を重ねる焼津佃煮業界、乾燥包装角煮開発に至る研究工夫の長い道程、角煮のキャンデー風包装品が爆発的好評博す、戸田と前後し山口・清水らも独自製品を発売、贈答用としても珍重される生炊きの高級角煮、年を追ってその機能を充実させる小売商組合、旧水産会事務所を取得し小売組合事務所建設、鮮魚介小売商業協組の設立と新事態への対応、魚市場新四号売場の開設と周囲の新しい情勢、小売組合自身が仲買人としての資格を持つ、水銀問題の打撃大きく得意先招待懇親会中止、続いてデコンポ問題等が発生業界の損害深刻、輸出から内販へと全面転換したびんなが缶詰、粒々辛苦して先輩達が築いた鰹節組合の拠点、旧拠点を西友ストアーへ売却し新拠点を築く、培養施設を設置し純粋培養菌で鰹節に徽付け、三十有余年組合で宮中への鰹節献上を続ける、研鑚会を設け鰹節製造の伝統技術を継承する、化学調味料万能時代を迎え苦悩する鰹節業界、爆発的な売れ行き示した鰹節削りパック商品、多層フィルムの開発によってパック化に成功、新製品発売までに積み重ねられた地道な努力、昭和四十年代後半から急増した鰹節類の生産、明日を担う青年部活動と水産会研修会の発足、新しい息吹きあふれる水産会機関紙『鱗友』、若人の意気で活動する各業種別組合の青年部、 県水産試験場の焼津誘致に努力した水産業者、郷魂祠を奉賛会と鰹節組合で永久に維持、同志眠るフィリピン・北ボルネオ慰霊団派遣、四、意欲新たに未来へ向けての出発、叙勲の栄を機に服部虎吉仲買人組合長を辞任、業界激変の時代に組合を統括した服部の感慨、新時代への輿望を担う新組合長・長谷川勝芳、未来に確信を持ち得ぬ不確定時代を模索する、新時代の需要を探り対応に努める業種別組合、先輩の遺産を生かしその上に若々しい新風を、資料、付・組合員名簿、主な参考・引用史料、文献等について、あとがき、



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