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書誌情報サマリ

書名

焼津鰹節史        

著者名 焼津鰹節史編纂委員会/編
著者名ヨミ ヤイズ カツオブシシ ヘンサン イインカイ
出版者 焼津鰹節水産加工業協同組合
出版年月 1992


書誌詳細

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タイトル番号 1005010097414
書誌種別 地域資料
書名 焼津鰹節史        
著者名 焼津鰹節史編纂委員会/編
書名ヨミ ヤイズ カツオブシシ   
著者名ヨミ ヤイズ カツオブシシ ヘンサン イインカイ
出版者 焼津鰹節水産加工業協同組合
出版地 焼津
出版年月 1992
ページ数 912p 図版
大きさ 27cm
言語区分 日本語
分類 S588
目次 巻頭写真、発刊に当たって(村松直衛)、編纂を終えて(清水健太郎)、凡例、序編、鰹節の始まりと江戸時代の焼津節、一、律令時代駿河は煮堅魚などの産地、夏の間駿河湾内深く滞留した鰹、古代から既に鰹を擬餌針で釣る、駿河から堅魚・煮堅魚・堅魚煎汁、沼津で煮堅魚用の土器大量に出土、古事記・万葉の歌に偲ぶ焼津の里、遺跡調査から見た焼津の古代史、昔は沖合いへ出ていた焼津海岸、ニ、土佐で創始されたという燻乾法、煮堅魚から鰹節に至るまでの歩み、紀州印南漁民の土佐通漁と甚太郎、甚太郎を燻乾法の創始者とする説、延宝の頃土佐節製法が大きく進歩、土佐・紀州郷土史家による新見解、三、江戸時代に入り賑わい増す焼津、家康が焼津の鰹船二十五隻を徴発、江戸時代初頭海岸に相当な集落、駿府の家康に焼津の初鰹を献上、家康の好んだ”興津鯛”は焼津産、寛永・明暦の古文書と焼津の漁業、宝永二年藩主が焼津の鰹節買い上げ、堀川の完成と海運で賑わう新屋湊、漁家商家交わりて繁華なる土地、鮮魚の販売に主力を置いた焼津、四、焼津へ土佐切りを伝えた初次郎、改良節を東国に伝えた土佐の与市、伊豆安良里村へ迎えられた与市、後年千倉に与市の顕彰碑が建つ、独自の努力で向上していた焼津節、”志摩の初”来り土佐切りを伝う、文政二年相良へ迎えられた初次郎、相良町浄心寺に建つ初次郎の墓碑、初次郎と改良節製造法の関り、浦から浦へと自然と伝わる製法、名品を生んだ土佐藩の検査制度、土佐切りの鮮やかな技術を教わる、土佐製法が定着しなかった理由、盛んな駿府魚問屋との取り引き、生業に励みつつ幕末を迎える、第一編、全国的な鰹節産地への発展、第一章、血みどろの努力を重ねた明治の人々、一、意欲的な商売を目指す魚商人たち、奔流の如く時代は江戸から明治へ、進時代を迎え魚の販路拡大に励む、街道が整備され開運が盛んとなる、積極的に沖へ乗り出して行く漁船、道中売りの解禁を県知事へ直訴、引き続き炬火の使用を知事に申請、年とともに焼津の鰹節生産量増加、明治十七・十八年頃の焼津海岸各村、第一回水産博覧会で三等に入賞、貧しい生活と”えんかさん”の施米、通行料の団体割り引き契約を結ぶ、ニ、新時代に対応する体制を整える、新時代にも大差ない人々の生業、魚商団体を設け共同弁償制を実施、当時の経緯を伝える『沿革史 』記述、功労者村松善八と山口平右衛門、極めて健全な弁償金会計の運営、法定組合設立への準備を進める、城之腰水産製造販売組合を設立、一足遅れ北新田に共同水産会社、明治二十三年四月東海道線が開通、勇んで鉄道出荷し倒産する者続出、弁償金急増し組合補償制度を廃止、三、苦心の末焼津節の地位を確立、鰹節改良に十キロ先から清水を運ぶ、焙乾の強い伊豆節の製法を学ぶ、河内弥之助(土佐の教師)の伝習所開設、飽くことなき研究工夫の努力続く、県水産誌に見る当時の焼津節製法、製造用具にも工夫改良を加える、 全国品評会で圧倒的な地位を確立、町品評会で全体の技術向上はかる、焼津から全国へ製造教師を派遣、各産地と繋がりを深めた製造教師、市場評価高まり次第に価格上昇、土佐節と肩を並べる地位に到達、年を追って増加する焼津節生産量、賑わう魚市場と他産地荒節の入荷、製造場が改善され清潔な環境に、鰹の残滓を処理する肥料会社設立、村田水産翁土佐節の怠慢を論難、海岸の浸蝕激しく町ぐるみ移転論、延々たる長城・海岸堤防の建設、焼津の海と人を愛した小泉八雲、四、水産業近代化への体制整う(水産五団体の成立)、五団体の指し所は焼津漁業組合、三水産会社の競合が悪弊を生む、三社を統合し焼津水産会社設立、県が発動機付き鰹船富士丸を建造、会社を設立動力漁船を続々建造、続いて生産組合が動力化推進、氷の使用で鰹の鮮度大幅に向上、腐心した魚代金弁償制度を廃止、魚承認の據点(社団法人)焼津水産会を設立、五、規模拡大を進める鰹節業界、急増する鰹の漁獲と荒節の移入、鰹節樽の規格を定め統一をはかる、削り職工の確保に種々苦心する、節削り職工組合と賃金協定を結ぶ、市場外での鰹節売買規定を制定、製鉄煮籠や”築山式敷簀”など工夫、銀行資金を導入する数々の試み、焼津節発展の功労者松村善八死去、第二章、大正の繁栄期を迎えた鰹節業界、一、台湾・鹿児島・八丈等へ出張製造、明治の基礎の上に大正の花開く、鰹の水揚げ量・魚価ともに三倍に、村松善八(二代)台湾へ進出を求められる、大挙渡台し年間三万貫を製造する、大正二年には奄美大島へも進出、山川・枕崎へも焼津の業者が出張、八丈島へ製造場を設けた清水善六、水産会で鰹節の対米輸出を試みる、ニ、技術改良の努力・大量生産体制の確立、鰹節分析試験を水産 講習所に依頼、味よき理由「不明の時代」と回答、県水試が焼津に鰹節製造試験所、焙乾に湿乾法の導入などを実験、鰹節製造業の実態記した県調査書、鰹節の保管に冷蔵庫の利用始まる、「花かつを」や「鰹エキス」製造、毎月十五日を定例入札日と定める、証票と商標を定め樽に貼付する、節削り男工伝習所と給食公益社、三、鰹節倉庫の設置、百貨店納入の開始、鰹節倉庫を設けて銀行が荷質融資、焼津銀行営業記録に見る鰹節商況、入庫品を氷菓しその八割を融資、鰹節金融に力注いだ銀行の消長、清水善六の鰹節百貨店納入記録、県内各地から節を買い漁った記録、四、大戦による好況と鰍節業界の波瀾、〇三焼津市場の大正期営業報告書、大正初期の鰹節商況と四年の暴落、大正五年から鰹節価格上昇の一途、大正八年遂に一樽百円を越える、品薄感から遂に一樽百八十円の声、波瀾ぶくみで始まった大正十一年、暴落で八千樽を抱え倒産した柊屋、大震災で全商品を焼失した清水家、丸焼けの東京へ在庫品を統々出荷、焼津鰹節商金融組合を設置する、水産会が同業、同志に内部分裂、鰹節業者は同業組合に結集する、第三章、昭和の大不況を耐え抜く焼津鰹節業界、 一、昭和初期の焼津港と魚商人の活動、金融不安と魚価低落で昭和始まる、失業者が東海道に列をなす時代、大正の頃一尾二円の鰹が二十銭に、同業、同志の各団体が連帯保障団、相当な財産を持つ同業組合会計、不況倒産する人達の悲惨な記録、続々建造された新鋭鋼製鰹漁船、不況下を逞しく生きる庶民の娯楽、昭和五年天皇行幸と鰹節製造実演、その他皇族来焼と鰹節の製造実演、未曽有の大豊漁が続いた昭和六年、昭和七年の銀行倒産と不買同盟、二十二日間に及んだ不買同盟解決、とんぼ鮪油漬け缶詰工業の勃興、大正元年以来の悲願、焼津築港、飽くなき陳情請願運動で築港実現、二、倉庫取得など十五日会(鰹節組合)の積極的な活動、不況下に呻吟する昭和の鰹節業界、昭和四年焼津鰹節商十五日会発足、水産銀行が鰹節専用倉庫を手放す、騎鰹節組合と「生」組合倉庫を共同所有、定例入札会の充実と標準画の作成、三問屋へ情報提供の謝礼を贈る、主要各地問屋などの回想(村松直治郎記)、満州派遣軍に大量の鰹節を贈る、鰹節組合で水産図書刊を設置(後に水産会へ移管)、大都市での鰹節消費大宣伝を実施、南洋節が内地鰹節を大きく圧迫、南洋へ進山した焼津の庵原市蔵、南洋興発が水産部を設け鰹節製造、焼津で職工資材を求める南興水産、戦時体制下で発展した南興水産、南拓の南興水産買収に反対運動、大挙して政府へ反対運動を行なう、成功した運動と業界その後の経緯、鰹魚価暴落対策に軍隊納入運動、盛大に丸市鰹節市場十周年(全国品評入札即売)会、三、昭和元年-十四年の焼津鰹節業界商況、鰹節相場の下落で始まった昭和、昭和元年、大豊漁の鰹は殆ど生利節となる、昭和2年、鰹漁期早まり三月十日初切込み、昭和3年、鰹節相場一樽百円を大きく割る、昭和4、年末の需要期に至り不振甚だし、昭和5年、不眠不休で鰹の切り込みを続行、昭和6年、鰹節の生産量も価格も前代未聞、不況極まり鰹節生産量四分の一、昭和7年、前年の滞貨が相場に大きく影響、南洋節の移入が鰹節相場を抑制、昭和8年、依然弱含みに推移する鰹節相場、昭和9年、全国的な品薄で商況若干上向く、昭和10年、大豊漁に沸いた昭和十一~十二年、相場弱く焼津節は生産を手控え、昭和11年、南洋節の圧迫受け相場更に低迷、昭和12年、南洋節恐るるに足らずの威勢、昭和13年、経済統制実施直前の悲しき光芒、昭和14年、第四章、戦争により壊滅した焼津水産業、一、経済統制と水揚げ激減の焼津港、先ず魚箱の釘が不足し出荷に支障、水産加工品への価格統制が始まる、県鰹節商連合会で統制参加を決定、全国鰹節連合会を設立「協」価格設定、鰹節倉庫の借入金返済を完了する、物資不足の中で浜は空前の好景気、盛んな鰹節生産で原料魚価は高騰、実勢を無視した鰹節の「公」公定価格、相次ぐ漁船の徴用で水揚げが激減、十六年正月から魚の抽籤配給実施、存在価値を失った○三会社魚市場、生産漁港の出荷統制機構が完成、 統制に対応する鰹節業界の組織化、製品価格より原料代が高い「公」価格、生利節も塩鯖も製造できぬ「公」価格、鰹節業界を十組に分け代表が抽籤、業界の合同体「鰹」焼津鰹節生産会社、出荷統制組合発足当時の焼津港、戦時下自活の途を求める水産業者、航空隊食糧に万切鰹節を作る、焼津を支えた水産五団体も消滅、小舟も出漁できぬ中で終戦迎える、二、戦時下のロマン皇道産業焼津践団、指導者の資質備えた村松正之助、国家主義の下での業界体制を模索、鰹節業界の共同化と郷土一家思想、新時代への対応を提唱する正之助、町ぐるみ共同社会とするその思考、日を追って高まる南進への期待、開戦を享けて南進報告会を結成、南進の計画と体制づくりを進める、先ず(有限会社)皇道産業焼津営団を設立、来る人を拒まず総てを受け容れる、南進に必要な船や資材を買い漁る、渡航許可の見通し立たず苦慮する、先ずセレベスへ先遣隊員を派遣、北ボルネオ先遣隊は現地で軍属に、先遣隊とともに密航した山崎剣二、一度引き揚げるフィリピン先遣隊、大手水産会社の南方占領地進出、三社を統合し皇道産業焼津践団に、鰍節倉庫を皇道産業へ現物出資、南方開発金庫からの借入れに成功、南進計画を進める本社の六部体制、三、践団堂々の南進から悲惨な敗戦へ、陸軍大臣に渡航許可の願書を提出、大規模な融資を求める目論見書、波航一年間の経費三百三十余万円、北ボルネオ、比島両派遣団を編成、一月末出発を想定して訓練を実施、二月二十一日両派遣団焼津を出発、漸くフィリピンの渡航許可下りる、両派遣団で計五百九十六人を送る、軍の要請で北ボルネオ各所へ配置、現地の人々と兄弟の如く付き合う、比島派遣団はパラウイ島に基地、パラウイ基地で盛んに鰹節を製造、パナイ、セブ方面へ第二基地、第二基地操業の直後戦火の渦中へ、散々な目にあった交易船東亜丸、ゴム靴三万足を運んだボルネオ丸、静岡新聞に南方雌飛の座談会記事、比島に留まる三次ボルネオ派遣団、フィリピン派遣団最初の犠牲者、比島派遣団全員が現地軍へ召集、比島各地で散っていった団員たち、『践団史』に記された極限の戦い、兵力損耗の大半は栄養失調死、当初は安全圏だった北ボルネオ、北ボルネオ東岸の防備強化を急ぐ、北ボルネオ防衛作戦百八十度転換、死の転進で団員も次々斃れる、ラブアン島の団員十八名が玉砕、派遣団本部クチンにも戦火が迫る、クチン総攻撃の直前終戦となる、クチソ収容所生活から引き揚げへ、本社に郷魂祠を建立犠牲者を祀る、第二編、戦後の経済成長と焼津鰹節組合の発展、第一章、戦後の混乱期を経て統制解除へ、一、年を追って復興進む焼津漁港、深刻な打撃に苦しむ焼津鰹節業界、軍人だけで一千人近い町の犠牲者、徴則船中無事帰還した鋼船は五隻、焼津の浜へ群がるカンカラ部隊、大阪では魚が公定価格の二十五倍、その時々可能な商売で食いつなぐ、水産業界の新組織づくり始まる、 戦後数年で戦前を上廻る漁業復興、昭和二十三年先ず鰹節が統制解除、昭和二十五年魚の統制全廃となる、見返り資金導入で築港一気に進む、二、南進の夢破れし皇道産業の終焉、社名を興国産業に変更して新発足、次第に判明する渡航派遣団の惨状、哀しき盛儀二十一年の郷魂祠大祭、終戦直後践団へ作家橋爪健を招く、救国の口マン生産郷を提唱、雑草などを食糧化する研究に熱中、生活に疲れやがて焼津を去る橋爪、(合)興国産業が新会社(株)焼津践団に、土地建物資材漁船など当時の資産、南方に残した一千万近い在外資産、南発、勧銀からの債務返消計画、悪化の一途を辿る焼津践団の経営、再び「生」から時借りを重ねる、村松正之助の死去で践団終わる、践団所有の土地建物は「生」の所有に、践団解散後南発債務督促を受ける、奉賛会と鰍節組合で郷魂祠と護持、第二章、焼津鰹節水産加工業協同組合の歩み、一、組合を設立し発展の基礎を固める、昭和二十三年八月鰹節の統制廃止、組合を中心に業界の再建を目指す、焼津鰹節水産加工業(協同組合)を設立、昭和24年、銀行融資など合を第一回月例会協議題、先ず組合定例入札会を復活する、組合用地の確保と事務所の建設、昭和25年、今日まで続く宮中への鰹節献上、焼津で全国品評会並びに即売会、ブロック保証で資金を貸し付ける、経済不況下鰹節の売れ行き不振、百貨店などへの鰹節納入も始まる、組合で節削り職工養成所を開設、昭和26年、石造倉庫二棟を取得し発券倉庫へ、倉荷証券の発行(荷質金融)を開始、昭和27年、堅実な商売で発展する業界、昭和26、27年度組合事業慨、事業規模を拡大する鰹節組合、昭和28年、第一回恵比寿講大入札会を開く、委託集荷の成果大いに挙がる、昭和28年度組合概況、福竜丸事件で水産業大きな打撃、昭和29年、長老から新進へと組合理事交替、前年比二~三割安で業界苦況、昭和29年度組合概況、着々と組合の整備充実をはかる、昭和30年、全国鰹節業者大会を焼津で聞く、大会で新案削り器の開発等を決議、生産地から集散地へ脱皮始める、昭和30年度組合概況、神武景気の余恵で業界は活況、昭和31年、家庭用新案削り器の採用作品無し、引き続き売れ行き好調を持続、昭和31年度組合概況、貯蓄組合を設置金融業務強化、昭和32年度組合概況、宮崎県等から女子季節工を招く、二、削り工程の機械化など近代化始まる、村松直衛が新組合長(望月組合長急逝で)に、昭和33年、最初の冷蔵賭建設を慎重に進める、最賃制実施に労基署の熱心な指導、十一月から最低賃金協定を実施、最低一日二百四十円、月六千円に、労働省調査に見る焼津業界の実態、計量単位を貫からキロに(節削り技術者の表彰も)、雑節の生産、売れ行き好調、昭和33年度組合概況、竣工早々利用盛んな組合冷蔵庫、節削り機械化研究委員会が発足、雑節は大幅減(定例役員会十五日に、従業員慰安バス旅行)、 昭和34年度組合概況、業界の将来性に悲観論強まる、昭和35年、節削り工程機械化の成型機を完成、組合へ成型機を据え委託加工開始、節削り成型機全国の業界へ普及、鰹節、雑節とも売れ行き好調、昭和35年度組合概況、冷蔵庫建設、家庭削り器再考案、昭和36年、組合決算三百万余の剰余金、昭和36年度組合概況、第六回全国品評会を開催、昭和37年度組合事業概況、次なる飛躍への構想を固める、昭和38年、三、新時代への対応策を積極的に推進、総代会の設置、温泉地での総会開催、信用部を開設し組合業務を拡大する、東冷蔵庫建設と大井川用却の取得、将来の発展に対処(厚生年金住宅も)、昭和39年度組合事業慨況、鰹不漁(マリアナ遭難など)魚価高で鰹節減産、鰹の頭切り機を開発し公開テスト、年数回の全国対象入札市(大井川用地に共同作業所建設)、組合に専任理事(田中馨)を置く、段ボール容器の開発使用も、不況下にも組合の充実進める、昭和40年度組合事業概況、鰹漁業次第に周年操業へと進む、急速に普及したプライン凍結法、大井川用地の農地転用に手間どる、頭切り機放障多く販売を一時中断、全国の集散地化目指し大入札会、公害問題に対処する加工団地計画、新時代への途を模索する組合、昭和41年度組合事業槻況、業界の体質改善を目指す事業計画、大井川用地へ組合施設を順次移転、組合の区域拡大、全国大会の開催、鰹水揚げ減が在庫調整効果、昭和必年度組合事業概況、日冷草薙冷蔵庫の取得(大井川用地の共同施設計画進む)、信用業務の充実拡大はかる、昭和43年度組合事業概況、化学調味料の有害問題が起こる、組合の金融措置で値崩れを防ぐ、大井川用地の半ばを組合員に分譲、オカカ、プロオカカの開発販売、焼津の生産減を移入で賄う、昭和44年度組合事業概要、二冷蔵庫(東冷草薙)処分し新冷蔵庫を建設、生鰹価格の上昇に苦しむ、昭和45年度組合事業概況、完成早々満庫状態の新冷蔵庫、改良型頭切り機一気に全国へ普及、乾燥庫(焙乾工程の合理化)の研究開発に熱中、県工試の協力で乾燥機開発に成功、かび菌の研究、消費動向調査(消費者モニターを委嘱)、ブロック再編成、鯖節急増、昭和46年度組合事業概況、全国統一段ボール容器の開発販売、売れ行き好調で在庫不足に、昭和47年度組合事業概況、(ハワイ旅行中止、郷魂祠組合で護持)、石油ショック、昭和48年度組合事業概況、未来を青壮年部の手に託す(組合の機構を改革)、(パック商品の)本給化で鰹節生産急増、昭和49年度組合事業概況、第三章、自らの努力で未来への道を拓く、一、公害への対応と加工団地(水産加工センター)の建設、公害問題への関心一気に高まる、団地を設け排水共同処理の構想、焼津が(水産物産地)流通加工(センター形成事業)指定港に、市が中心となり事業推進をはかる、昭和46年から水質汚濁防止法施行、県の上乗せ規制で大半が該当者に、 先ず排水浄化機の開発から始める、(流通加工センター形成事業)に鰍節組合の積極的な姿勢、魚仲買人組合(用地確保ができず)計画を断念、鰹節組合が事業主体となる方向へ、鰹節組合の単独事業実施が決定、急據基本方針十項目を決定する、一気呵成に用地被保と(水産加工センター)設立、汚水処理など共同五施設を建設、年間生産高三百億余の加工団地に、業界の多くは独立独歩の道を選ぶ、二、組合據点の売却と焼津鰹節会館の建設、鰹節文化センタービルを計画、西友から組合用地の譲渡申し入れ、臨時総会で組合用地の売却を決定、急ぎ代替地を確保し事務所を移転、瀟酒な外観の焼津鰹節会館竣工、三、鰹節業界パック商品の時代に入る、鰹節の広頭削り実演販売大好評、鰹節削り袋詰めの研究に取り組む、にんべんがパック商品の先鞭、焼津でもパック商品の生産開始、パック商品で鰹節の需要が急増、鰹節業界に新しい時代を画す、四、昭和五十年代に付随する主なでき事、安定した基盤整う焼津鰹節業界、苦灘の時代を迎えた遠洋鰹鮪漁業、調整保管事業で鰹鮪の魚価を維持、鰹魚価の激しい乱高下に戸惑う、新しく開発された海外旋網漁業、海外旋網漁業三十二隻体制固まる、海旋船の基地化で鰹の水揚げ倍増、長く続いた郷魂祠奉賛会の戦後、遺族、団員らによる慰霊団現地へ、フィリピンを行く慰霊団の旅、昭和55年、戦跡に涙する北ボルネオ慰霊団、昭和56年、五、経済低迷期に対応した着実な歩み、昭和五十年代への基本的組合指針、生産は順調、寺尾(副組合長)の組合葬、昭和50年生産概況、資源問題から海外での生産を検討、魚体身割り機を完成(食品産業センター補助事業)で、昭和五十一年の出来事種々、組合事業報告生産概況、調整保管(鰹魚価の高値安定事業)に共同購入で対処、原魚高の中で生産量を確保、昭和52年度生産慨況、鰹魚価漸落し共同購入も終了へ、随時組合員全体会議を開く、昭和53年度生産機況、黒子問題に鰹節組合機敏な対処、魚価高騰のなか生産に訪む、昭和54年度生産慨況、数々の表彰、用具のステンレス化、異常な魚価高にも生産順調、昭和55年度生産概況、製造技術開発や全鰹青大会など、見込み生産が計画生産へ、昭和56年度生産概況、カビ付け菌の培養施設を設置する、優良カビ菌を全国の業界へ供給、熱海温泉で総会、田中(専務理事)の死去、魚価安定し生産大いに進む、昭和57年度生産概況、伝統技術の継承を望む声高まる、焼津鰹節伝統技術研鑽会が発足、大入札市を年間四回から二回に、悲喜交々の一年(鰹節の生産は魚価安で順調)、昭和58年度生産概況、全国品評即売会及び全国業者大会、新しい鰹節業界活動の創造を(業者大会)、生産と販売をテーマに討論(全鰹青シンポ)、組合が農水大臣表彰(組織化近代化の努カが評価)、昭和59年度生産概況、第四章、食品産業としての未来を模索しつつ、一、経済激変期に業界の対応を探る、 産業構造変革を求められる時代に、鰹魚価安値安定の時代を迎える、(焼津鰹節)伝統技術研賛会が農水大臣賞、受賞組合史編纂、雑節の生産盛ん、昭和60年度生産概況、小川港の鮪漁業と雑節の生産高、新頭切り機発売(商品)見本取り引き、魚価安定し切り込み順調、昭和61年度生産概況、組合信用部貯蓄二十億円で表彰、引き続き生産順制に推移、昭和62年度生産概況、荒節の生産年間一万トン定着、昭和63年度生産概況、検討委が組合冷蔵庫新設を答申、信用部貯金二十億円を越す、平成元年度生産概況、焼津の節類生産高二百億円、平成2年度生産概況、不透明感増す時代への対応を探る、資料、[資料1]為取換約定ノ証書、為取換約定ノ事、[資料2〕城之腰水産物製造販売組合規約、[資料3]焼津水産会定款、[資料4]焼津水産協同配給組合規約、[資料5」焼津水産業組合規約、[資料6]焼津水産商工業協同組合定款、[資料7]焼沖鰹節水産加工業協同組合定款(設立当初のもの)、[資料8]焼津鰹節水産加工業協同組合倉庫業務規則(業務開始当初のもの)、[資料9]焼津鰹節水産加工業協同組合定款(平成三年現在のもの)、焼津鰹節組合調査年度別生産状況、組合職員、技術員数、組合経営概況、焼津鰹節水産加工業協同組合歴代役員、焼津鰹節水産加工業協同組合員名簿、組合職員名簿年表及び索引、主な参考文献、資料など、焼津鰹節組合史編纂委員、あとがき



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1 0004548210県立図書館S588/26/閲覧室地域資料貸可資料 在庫    
2 0004548228県立図書館S588/26/書庫6地域資料貸禁資料 在庫     ×

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