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6 「静岡学問所之碑」~明治初期の最高学府~

 徳川家達を藩主とする駿府藩は、早くも1868(明治元)年9月に駿府学問所(静岡学問所)を設置する布告を出した。駿府藩は崩壊した旧江戸幕府の元幕臣たちを中心にして構成されていたが、開成所など旧幕府の教育機関に所属していた学者たちも駿府に移住し、旧幕府の蔵書も移された。
 こうした旧幕府の知的遺産が漢学、国学、洋学を総合した静岡学問所の原動力となり、当時おかれた沼津兵学校と並び、国内最高水準の教育が展開された。学問所頭には漢学者向山黄村と洋学者津田真一郎(真道)が就任、『西国立志編』や『自由之理』を翻訳した中村正直(敬宇)は一等教授に就任した。また1871年にはアメリカ人エドワード・ワレン・クラークも招かれて物理・化学などを教えた。
 学問所は、当初、元勤番組頭屋敷(現静岡市民文化会館付近)に仮におかれたが、のち、四ツ足門の元定番屋敷(現合同庁舎一帯。この碑があるあたり)に移った。
 その後、廃藩置県を経て静岡学問所は1872年8月に廃校となり、わずか4年間でその教育活動を終えた。なお、学問所にあった江戸幕府旧蔵書は現在、「葵文庫」と呼ばれて静岡県立中央図書館に保管されている。

<参考文献 記号は静岡県立中央図書館請求番号>

壬生芳樹『東海道と碑』(静岡新聞社)<S290/137>
前林孝一良『徳川慶喜 静岡の30年』(静岡新聞社)<S289/ト13-9>
『静岡県教育史』通史編上巻<S372/40>
静岡県日本史教育研究会編『静岡県の歴史散歩』(山川出版社)<S290/90>

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