西周(周助)は将軍徳川慶喜の命で京都に滞在している時に、フィッセリング口述『万国公法』の訳稿の推敲をしていた。しかし、まもなく幕府は崩壊し、彼は鳥羽・伏見の戦いの敗走の混乱の中で、『万国公法』の訳稿を紛失してしまった。だから、彼の『万国公法』の刊行は不可能のはずだった。ところがその『万国公法』が、江戸で刊行されていた。
刊行された『万国公法』は、西の門人の持っていた彼の未推敲の訳稿の転写本を、誰かが勝手に刊行したのであろう。著作権法のなかった明治初期には、このようなことがよくあったらしい。
西はフィッセリングに宛てた書簡でこの事情を説明し、この版は誤りが多いと不満の意を表し、いつか自分の手で出版したいと述べている。たしかに訳文は生硬である。(1)
この本は、小型ながら、当時の国際法の教科書が通例説いている諸問題を網羅して、これに簡単ではあるが正確な説明を加え、議論はおおむね穏健であるといわれる(2)。これは、フィッセリングが、日本の留学生にかたよった学説を注入しないように講義したためであろう。(3) 西周や津田真道の著作からうかがえる当事の日本人の向上心の強さや研究態度の真剣さには、驚くべきものがある(4)。
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