江戸後期・明治初期の歴史/天保・弘化期(1830年〜1848年)
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4[天保・弘化期(1830年〜1848年)]

 1832年(天保3)帰国したシーボルトは、「日本」の第1分册を出版した。この本には高橋景保の「日本辺界略図」の翻訳図が収められ、間宮海峡の名が初めて世界に紹介された。

 1833年(天保4)ベルギー・ブリュッセル地理協会編「ヨーロッパ地図帳」が出版され、日本では「長崎ハルマ(ヅーフハルマ)」が完成した。

<参考文献>
 1837年(天保8)2月大塩平八郎の乱が起こった。6月アメリカ船モリソン号が浦賀に来航したので、浦賀奉行は砲撃を加えて追い払った。

 1839年(天保10)蛮社の獄がおき、渡辺崋山、高野長英らが逮捕された。崋山は三河国田原藩の江戸詰家老、長英はかつてシーボルトに学んだ蘭方医だった。モリソン号事件を契機に崋山は「慎機論」(しんきろん)を、長英は「戊戌(ぼじゅつ)夢物語」を書いて、幕府の外交政策をきびしく批判した。崋山は国元蟄居(ちっきょ)、長英は永牢を命じられた。長英は獄中で「わすれがたみ」などを著したが、1844年(弘化元)非人栄蔵に放火させ脱獄した。そして、江戸潜伏中に「三兵答古知幾」(さんぺいタクチキ)を訳し、その後、密かに四国宇和島藩に招かれて、「砲家必読」「垤 氏(でし)三兵答古知幾」など兵書の翻訳にあたった。

<参考文献>
 1840年(天保11)中国ではアヘン戦争が起こり、翌年から老中水野忠邦(みずのただくに)による天保改革が始められた。清国敗退の報が伝わり、1842年幕府は異国船無二念打払令を廃止して、薪水給与令を出した。1843年(天保14)改革は失敗に終わった。1844年(弘化元)オランダ国王は世界情勢を説いて、開国進言をして来た。1846年(弘化3)アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが、浦賀に来航して通商を要求した。

 
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