江戸後期・明治初期の歴史/文化・文政期(1804年〜1830年)
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3[文化・文政期(1804年〜1830年)]3

 1817年(文化14)イギリス船が浦賀に来航した。翌年、イギリス人ゴルドンが通商を求めて、浦賀に来航した。

 1821年(文政4)伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」が完成し、幕府に献上された。伊能忠敬は3年前に没しているが、その事業は天文方が引き継いでいた。

 1822年(文政5)またも、イギリス船が浦賀に入港して、薪水食料の供給を求めた。

 1823年(文政6)7月ドイツ人シーボルトがオランダ商館の医者として長崎出島に着任し、翌年長崎郊外の鳴滝(なるたき)に学塾兼診療所を開くことが許され、医学だけではなく動植物や地理産業などあらゆる分野の日本研究を弟子たちに行わせた。特に彼は蝦夷地など北方地域に強い関心を持った。門下生は、高野長英、伊東玄朴(いとうげんぼく)など数十名におよんだ。

 1824年(文政7)イギリス船員が薩摩の宝島に上陸して、牛を奪う事件が起きた。このように相次ぐ外国船の来航にたいして、翌年、幕府は異国船無二念打払令(いこくせんむにねんうちはらいれい)を出した。

 1828年(文政11)シーボルト事件が起きた。帰国直前の荷物の中から国禁の品が発見され、天文方高橋景保(たかはしかげやす)などが捕らえられた。景保はシーボルトの所持していた、ロシア艦長クルーゼンシュテルンの「世界周航記(蘭訳本)」と交換に、伊能忠敬の日本図や間宮林蔵のカラフト図などを与えたのだった。前述した高橋景保「日本辺界略図」をもう一度見ていただきたい。カラフト東北部の海岸線は実線で描かれてはいない。この地域については、景保は確かな情報を未だ得ることは出来なかった。ここを探検・測量したのは、クルーゼンシュテルンである。また、最新の世界の様子も知りたい。彼が「世界周航記」を欲しかったのは当然であった。翌年、高橋景保は獄死、のちシーボルトは国外追放の処分を受けた。

 
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