江戸後期・明治初期の歴史/寛政期(1789年〜1801年)
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2[寛政期(1789年〜1804年)]2

 1792年(寛政4)9月、ロシア使節ラックスマンが漂流民大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)らを送還して根室に来航し、通商を要求した。幸太夫は伊勢国白子浦(鈴鹿市)の船頭で、11年前の1782年(天明2)江戸へ向かう途中、乗員16名とともに漂流し、アリューシヤン列島アムチトカ島に漂着した。その後助けられてロシアで暮らし、女帝エカテリナ2世に拝謁して帰国が許された。海獣猟者たちの食料や日常品の補給基地だけでなく、世界貿易の一環として寄港地をのぞんでいた女帝は、漂流民の送還を理由に、通商を要求したのだった。蘭学者桂川甫周(かつらがわほしゅう)は、幸太夫からロシアでの体験や国情などを詳しく聞き取り「北槎聞略(ほくさぶんりゃく)」を著した。この幕府献上本(国立公文書館蔵、重要文化財)には幸太夫がロシアから持ち帰った地図の写しが付録としてついているが、当館もそれとほとんど同じ地図を所蔵している。

<参考文献>

 ロシアの通商要求を拒否した定信は、海防問題が重要な段階に入ったことを強く意識し、沿海諸藩に海防を指示するとともに、自ら房総伊豆相模を巡検した。

 1793年(寛政5)7月松平定信は突然老中を罷免された。

 1796年(寛政8)8月イギリス人ブロートンが絵鞆〜えとも〜(室蘭)に入港した。翌年にかけて日本沿岸を測量し、津軽海峡を通過した。この年「ハルマ和解」がつくられた。

 1798(寛政10)幕府の北方調査は再び積極的となり、近藤重蔵(守重)・最上徳内らは蝦夷・千島を探検して、エトロフ島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てた。

 1800年(寛政12)幕府は摂津の船頭高田屋嘉兵衛(たかだやかへい)にエトロフ島の漁場を開かせ、盛岡・弘前両藩の兵を駐屯させ、島民の同化撫育を図り、近藤重蔵に支配を命じた。彼は島民から千島列島の地理的状況を詳しく聞いて「チュプカ諸島図」を描き、初めて千島列島の全貌を明らかにした。この年伊能忠敬(いのうただたか)が蝦夷地東南海岸を調査した。

<参考文献>

 
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